書評

『蜜蜂と遠雷』(幻冬舎)

  • 2017/07/13
蜜蜂と遠雷 / 恩田 陸
蜜蜂と遠雷
  • 著者:恩田 陸
  • 出版社:幻冬舎
  • 装丁:単行本(507ページ)
  • 発売日:2016-09-23
  • ISBN:4344030036
内容紹介:
私はまだ、音楽の神様に愛されているだろうか?ピアノコンクールを舞台に、人間の才能と運命、そして音楽を描き切った青春群像小説。著者渾身、文句なしの最高傑作!

あどけない邪眼をもつ神の子ら

ピアノとクラシック音楽を材にとった小説の出版が続いている。調律師を主人公にした宮下奈都の『鋼と羊の森』や、高原英理『不機嫌な姫とブルックナー団』、ドビュッシーの「アラベスク第一番」を扱った谷川直子『世界一ありふれた答え』。小説ではないが、”もの書きピアニスト”青柳いづみこがコンクール現場を緻密に取材した『ショパン・コンクール 最高峰の舞台裏を読み解く』も出版された。ショパン・コンクールは五年に一度、チャイコフスキー・コンクールは四年に一度、浜松国際ピアノコンクールは三年に一度の開催であり、昨二〇一五年はこの二つが重なる年であったことも、日本のピアノ小説の活況に関係しているのかもしれない。”浜コン”に通い、十二年間取材を重ねたという恩田陸の『蜜蜂と遠雷』が、今秋ついに刊行された。間違いなく恩田陸の新たな代表作となる傑作である。

本作の主題は大小いくつもあるだろう。そのなかから一つは、「人の心を動かすものとはなにか?」という、創造をめぐる巨大な問い。音楽の神はどこに宿るのか? 芸術に優劣はつけられるのか? 二つめは、「創造物の生と死」について。これは、後半で、「一瞬と、永遠と。再現性――」という言葉で簡潔に表現されている。

物語としては、浜コンをモデルにした「芳ヶ江国際ピアノコンクール」を舞台に、出場者四人を主役にした群像劇である。登場順に紹介をすると――風間塵(じん)、十六歳。転地養蜂家の父についてフランスで育った異能の野生児。破格の大物音楽家の推薦状を携えてくる。次に栄伝亜夜、二十歳。天才少女として数々のコンクールを制したエリートながら深い挫折を経験。世界のあらゆるものに音楽を聴きとる。そして、高島明石は同コンペ上限年齢の二十八歳。全くクラシックの素養のない養蚕家の祖母に才能を「見いだされ」て音大へ。非特権的な「生活者の音楽」を目指して楽器店に勤める一児の父のサラリーマン音楽家。最後に、マサル・カルロス・レヴィ・アナトール、十九歳。日系ペルー人の母とフランス人の父の元に生まれ、日本で暮らした少年期には壮絶ないじめに遭った。現ジュリアード音楽院の優等生。この四人がいずれ劣らぬ魅力をもち得たのも、作者の力だろう。

四人とも音楽の神に愛されたアマデウスタイプの天才たちだ。とはいえ、神にも、ちょっと頭を撫でる位の可愛がり方もあれば、自ら嫉妬するような悪魔的な才能(ギフト)を与えることある。あどけない邪眼(イヴィル・アイ)の創造者を生みだすこともあるのだ。他者にも自分にも牙をむく「才能」の残酷さも描かれる。

作中には音楽界の現実が色濃く反映されている。たとえば、塵が最初に受けるオーディションは書類選考の落選者のみを対象とするが、前年のある者は「オーディションを受けて合格し……トントン拍子に二次、三次と勝ち上がって本選に残った上に、なんと優勝までかっさらって……更にその翌年、世界屈指のピアノコンクール……に優勝し、一躍スターになった」とか。門前払いされるようなピアニストが敗者復活戦で甦りスターに……そんなドラマみたいな話があるかと思いきや、実際、浜コンの第五回の最高位ブレハッチがそれにあたり、後にショパン・コンクールでも首位を獲得している。

巻頭に掲載されたコンクール課題曲の要綱、四人の曲目一覧なども、ほどよいリアリティと、痛快なとんでもなさが同居しており、奏者の人となりを鑑みた選曲が楽しめる。浜コンと違い、二次予選でエチュードを弾かせる設定なので、ショパンの通称「黒鍵」、リストの「超絶技巧練習曲集」やドビュッシーの「十二の練習曲」からの曲など、聞き覚えのある難曲が目白押し。また、小説家の腕の見せ所の一つは、二次予選で「春と修羅」という書き下ろしの現代曲を四人がそれぞれの解釈で弾く場面だろう。だれも聴いたことのない、この世に存在しない架空の曲。さらに、その曲中に各自が即興で弾くカデンツァがある。ある者の演奏に、ライバルは「闇が――宇宙が見える」と鳥肌を立て、師匠は「むしろ弟子が師匠を選んでいる」感じ入る。

それにしても、まさか、作者が四人の全ステージ・全曲を文字で「聴かせる」とは、思っていなかった。

そう、『蜜蜂と遠雷』は、巻頭の曲目一覧と巻末の本選の結果表に挟まれた形、つまり時空間をほぼコンクール期間中に絞りこんで描くという手法をとっている。予選前の練習風景や生活ぶりの描写、子ども時代のエピソードの挿入、といった序奏はある。しかし本作の要諦は、コンクールそのもの、とくに演奏シーンだ。それを取り巻く人間関係や伏線的な挿話は、四人のピアニズムを活字だけで浮彫りにし、演奏の陰影を深め、いっそう輝かせるためにあると言っていい。各自の演奏は必ず、家族や友人、師匠、ライバル、取材者など複数の視点からとらえられ、そこから逆に奏者の生身の人生が多角的に浮かびあがりもする。退屈な音楽用語の羅列はない。音楽小説は多々あれど、一つのコンクールを題材に、予備オーディションから、オープニング、一次、二次、三次予選、グランドファイナルまで(一次の百名近くから六名にまで絞られる)、主役たちのステージを一曲の省略もなく描くなどという果敢な作品は、類を見ないのではないか。エンターテイメントとしての効果を考えるに、どこかに山場を作れば、どこかは「中略」することになるはずだ。しかし本作の恩田陸はそうした約束事に淡々と抗していく。終盤、あえて人間ドラマの部分に解決や次手を打たず、コンクールの終了と同時に潔く幕引きするラストも鮮やかだ。

本作がピアノやクラシックに精通しない読者をも惹きこむのは、音楽以外の営みの精髄が普遍的に描かれているからだろう。ずばり、文学についても。ときに、『蜜蜂と遠雷』はもしや全編、音楽ではなく文学のことを書いた小説ではないかと思えてくるほどだ。そういう重層的な読みを誘発するのは、序盤に示唆的な問答が仕掛けられているから。文芸業界とクラシックピアノの世界は似ていると、ある売れっ子ミステリ作家は畳みかける。

「ホラ、似てるじゃない、コンクールの乱立と新人賞の乱立。……どちらも食べていけるのはほんの一握り。自分の本を読ませたい人、自分の演奏を聴かせたい人はうじゃうじゃいるのに、どちらも斜陽産業で……」「一見優雅なところも似てる」「いよいよみんな必死に新人を探してる。なぜかっていうと、どちらもそれぐらい続けていくのが難しい商売だからよ」

さて、このデュアリズムを頭の隅において本作を読むと、文学のことが重ね書きされているように見えてくる。たとえば、ある中国系米国人の技巧派の演奏を「アトラクション」だと指摘するくだり。「数多くの人材がアメリカに亡命、あるいは移住した。才能は、当然のことながら富と権力が集まるところに引き寄せられる」「演奏家が持っていたある種の土着性や……ニュアンスのようなものが、よりすっぱりと削ぎ落されていったのだ。/チャンはそういった、マーケットリサーチの行き届いたアメリカ音楽市場での、観客が望む姿を具現化したようなピアニストなのだ」。この箇所など、今の世界の越境文学そのものだ。米国への移民作家のなかでも、その土着性を「New Yorker」誌の好むお洒落さに変換できる書き手だけが成功するわけである。

また、作曲者名すら知らず「曲そのものと、一対一で対峙しているような印象」のある塵と、最近の潮流に従い作曲者の人となりや考えまでも知ろうとするマサルの関係は、文学でいえば、作品背景を排するテクスト主義批評と、作家研究批評の対立構図にあたるだろう。はたまた、「彼女を使って誰かが『弾いて』いる」といった、奏者を「仲介者」や「依代(よりしろ)」に喩える表現も、小説家にしばしば用いられるものだし、楽典の「忠実な解釈」と「自由な解釈」をめぐる考察に至ってはまるきり文学における翻訳論そのものである。そして、作中のこうした創作の泉を、養蜂、養蚕、農業、園芸、花店、華道など自然を相手にする生業が彩る。活け花はすでに死んだ花なのか、それとも一瞬と永遠を閉じこめる生きたアートなのか――。

本作はフランス語、英語、日本語など、多言語環境で展開する物語でもある。職業柄、マルチリンガル小説を読むと、どの場面で使用言語を切り替えたのか、とか、この人物がこんなに○○語が達者なのは不自然だなどと、細かい点で引っかかってしまう私だが、本作ではそういう瑣事は気にならなかったことも付記しておきたい。
蜜蜂と遠雷 / 恩田 陸
蜜蜂と遠雷
  • 著者:恩田 陸
  • 出版社:幻冬舎
  • 装丁:単行本(507ページ)
  • 発売日:2016-09-23
  • ISBN:4344030036
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私はまだ、音楽の神様に愛されているだろうか?ピアノコンクールを舞台に、人間の才能と運命、そして音楽を描き切った青春群像小説。著者渾身、文句なしの最高傑作!

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トリッパー 2016年冬

「小説トリッパー」は朝日新聞出版の季刊文芸誌です。3月、6月、9月、12月の年4回発行。書評ページの執筆陣には、鴻巣友季子さん、江南亜美子さん、倉本さおりさん、永江朗さんら、第一線のレビュアーをはじめ、朝日新聞の文芸記者や目利きの書店員が、季節ごとの話題作を余すところなく紹介しています。

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