不平等条約史観に対抗する
ペリーが来航し翌年に日米和親条約を、また五年後に日米修好通商条約を結んだ。その交渉をまとめたのが、老中の松平忠固(ただかた)だ。彼は忘れられた人物だ。徳富蘇峰は「老獪で我執な俗吏」と酷評した。薩長の「幕府は無能」キャンペーンが日本史を歪めている。「不平等条約史観」が学校で堂々と教えられている。義憤の筆が本書に凜とみなぎっている。
松平忠固は姫路藩主の十男に生まれ、上田藩主の婿養子に。一九歳で藩主。直後に三年続きの大凶作が襲う。三年の面扶持(武士俸禄のほぼ全額カット)を命じ、他藩で米麦を買い集め、餓死者を出さぬよう手を尽くした。
上田は養蚕の地だ。忠固は養蚕を奨励し品種改良や技術向上を図った。「上田産物会所」を設けて生糸の品質を管理し、大坂と江戸に直売所も開いた。ビジネス志向のリベラルな合理主義者だ。
忠固が四二歳のとき、ペリーが来航した。老中首座の阿部正弘は、徳川斉昭を海防参与に招くと提案する。斉昭は水戸藩主で、トランプのようなプッツン大名。過激な攘夷論者だ。女癖も悪く、大奥の女性を手籠めにしたので、大奥で評判が悪い。忠固は反対するが押し切られた。徳川斉昭は以後、幕政を攪乱(かくらん)する疫病神となる。
開国を迫るペリーに、忠固は前向きだ。反対の斉昭と激論になった。ともあれ忠固の努力で、日米和親条約の調印にこぎつける。
佐久間象山の弟子吉田松陰が、黒船で密航を企て捕まった。死刑の声があったが、忠固は寛大に松陰と象山に国元蟄居(ちっきょ)を命じた。忠固の家臣も象山に学んでいた。松陰は忠固を、生涯敬慕した。
領事ハリスが着任した。交渉は関税率が焦点だ。阿部は退き、堀田正睦が老中首座だ。一時失脚した忠固も老中に復帰した。忠固は巧みに交渉し、輸入税率二○%をかちとる。税率は日本側が交渉して変えてもいい。不平等条約でも関税自主権の喪失でもない。堂々たる外交交渉の成果である。
交渉の報告を受けた斉昭は、ハリスの首を刎(は)ね忠固は切腹だ、といきり立った。以後、水戸派のテロが頻発する。堀田は諸大名の動揺を鎮めようと、忠固が止めたのに、勅許を得に京都に向かった。攘夷派に同調する公家が多く、勅許は下りなかった。幕府には井伊直弼が大老として乗り込み、水戸派の攘夷論を弾圧し、忠固も排除した。忠固は辞め際に日米修好通商条約に調印した。井伊は水戸派に襲われ桜田門外で暗殺される。
著者の関良基(よしき)氏は農学者。歴史が専門でないという。だが見事な議論だ。考察その1。アメリカはなぜ日本を開国させたか。イギリスはインドに関税二・五%を課し、紡績業を壊滅させた。中国に関税五%を課し、植民地にした。低関税は帝国主義の常套だ。イギリスが来る前に通商条約を結び日本を守ろうとしたのだ。その2。外交音痴な薩長がイギリスに戦争を仕掛けて敗れ、関税を五%にされた。日本の工業化は停滞した。そのミスを隠そうと、幕府に責任を被せる「不平等条約史観」を広めた。攘夷論の開き直りである。
尊皇攘夷は非合理な自民族中心主義で、近代化を損ない、明治国家を歪め、大東亜戦争を招いた。忠固の育てた生糸は半世紀にわたって外貨を稼ぎ、近代化を支えた。目を覚ませ、先人の叡知に学べ。本書はその警世の書、必読だ。