書評
『人生と運命 1』(みすず書房)
戦争に揺れる人々、背後に広がる闇
まず喝采したい。20世紀文学という巨大な山脈の最高峰の一つがついに翻訳されたのだから!これは、第2次世界大戦の趨勢(すうせい)を決したスターリングラードの攻防を背景に、独ソ戦によって運命を翻弄(ほんろう)される人々の愛、希望、苦悩、絶望を、その生と死を、精緻(せいち)にかつ力強く描いた壮大な小説である。実在した人物を含め膨大な数の人物たちが登場するが、彼女ら・彼らの生きる個々の逸話はそれだけで独立した長篇小説となりそうなほど波乱に富んでいる。物語を読むことの醍醐味(だいごみ)がここにはある。読者は、シャーポシニコフ一家の長女リュドミーラが負傷した息子を探しに行った先で出会う悲劇に息をのみ、次女マルーシャの娘で、スターリングラードの飛び交う砲弾の下で大きなおなかを抱えて恋人の迎えを待つヴェーラの幸福を願い、三女ジェーニャと、ドイツ軍を包囲すべく戦車軍団を率いて進軍するノヴィコフ大佐との恋の行方から目を離せない。
だが物語の快楽に酔いつつも、不意に目が冴えてしまうとしたら、それはこの小説の背後に広がる奥深い〈闇〉、すなわち全体主義の恐怖のせいだろう。本書には独ソ両陣営が生み出した「収容所」が登場する。リュドミーラの最初の夫が送られたシベリアの収容所と、ナチスのユダヤ人絶滅収容所である。作中でナチス親衛隊少佐が指摘するように、ナチズムとスターリニズムは互いの鏡像なのだ。二つの体制がともに個人から自由を奪い、〈人間〉を根底から否定するものだという、ナチズムに勝利したソ連当局にとって不都合な〈真実〉を明らかにしていたために、『人生と運命』は出版を許されず、国外で刊行されるまで20年もの忘却を強いられる。
スターリングラード攻防戦のさなか、戦争を経験していないトルストイが『戦争と平和』という傑作を書いたことに驚く将軍が出てくるが、逆に『人生と運命』には、作者グロスマンの生きたすべてが注ぎ込まれている。現ウクライナにユダヤ人として生まれたグロスマンは、従軍記者としてスターリングラードを経験し、西進する赤軍に随行してベルリンに入城する。ユダヤ人絶滅収容所について世界で最初の報道を行ったのも彼である。本書の主人公のユダヤ系核物理学者ヴィクトルの母は、グロスマンの母と同様に、ウクライナに侵攻したドイツ軍によるユダヤ人虐殺で命を落としている。
だがこの小説が描くのは〈ユダヤ民族〉の悲劇や〈ロシア人〉の悲劇だけではない。「アベル。8月6日」という広島の原爆の犠牲者への共感に満ちた短篇も書いているグロスマンの念頭からつねに離れなかったのは、苦しむ〈すべての人間〉の人生と運命なのである。
朝日新聞 2012年5月20日
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