選評

『吉原手引草』(幻冬舎)

  • 2017/07/16
吉原手引草 / 松井 今朝子
吉原手引草
  • 著者:松井 今朝子
  • 出版社:幻冬舎
  • 装丁:文庫(326ページ)
  • 発売日:2009-04-01
  • ISBN-10:434441294X
  • ISBN-13:978-4344412941
内容紹介:
廓遊びを知り尽くしたお大尽を相手に一歩も引かず、本気にさせた若き花魁葛城。十年に一度、五丁町一を謳われ全盛を誇ったそのとき、葛城の姿が忽然と消えた。一体何が起こったのか?失踪事件の謎を追いながら、吉原そのものを鮮やかに描き出した時代ミステリーの傑作。選考委員絶賛の第一三七回直木賞受賞作。

直木三十五賞(第137回)

受賞作=松井今朝子「吉原手引草」/他の候補作=北村薫「玻璃の天」、桜庭一樹「赤朽葉家の伝説」、畠中恵「まんまこと」、万城目学「鹿男あをによし」、三田完「俳風三麗花」、森見登美彦「夜は短し歩けよ乙女」/他の選考委員=浅田次郎、阿刀田高、五木寛之、北方謙三、林真理子、平岩弓枝、宮城谷昌光、渡辺淳一/主催=日本文学振興会/発表=「オール讀物」二〇〇七年九月号

抜群の一作

畠中恵氏の『まんまこと』の拵(こしら)えは巧みである。〈日々の雑多で小さな揉め事は奉行所に届け出ることなく、差配や名主が解決する仕組みになっていた。〉(二十頁)――そこで作者は、神田の古名主の息子を新式の捕物帳の主人公に据えた。ここまではいいが、でも、どうしてこうも読みにくいのか。ひっきりなしに入る回想で後戻りばかりしている会話、古めかしい漢字を好む癖、受動態の多い地の文など、読者に負担を強いる文章が読みにくいのだ。それ以前に、登場人物たちが揃って無表情で無感情なのも、この作品を読みにくくて、冷ややかなものにしている。

桜庭一樹氏の『赤朽葉家の伝説』は、山陰の旧家の三代にわたる女たちの生涯を点綴(てんてい)しながら戦後日本史を書こうとした力感あふれる意欲作である。とりわけ、少女漫画家赤朽葉毛毬の閃光のような生き方を剛直な文章で彫り上げた第二部は掛け値なしにすばらしい。ただ、戦後史を語るときに突然、年表のような記述が現われるのが惜しかった。もっとたっぷりと枚数をかけた小説にしたら、年表のような記述も姿を消しただろうに、つくづく惜しいことをした。

三田完氏の『俳風三麗花』には、作者の創作による俳句が百以上も載っていて、それがみんなりっぱな出来栄え。さらに句会の段取りもよくわかるし、これほどうまくできた俳句小説はめずらしい。昭和初年の雰囲気を描き出す手つきも文章もみごとなもので、これが一個の佳作であることは疑いを入れないが、句会から外界へ一歩踏み出すと、生起する事件がやや粗っぽく、せっかくの佳作の艶(つや)を消してしまったようだ。それで最終的には票を投じなかったが、しかしいまでも心残りな作品だ。

北村薫氏の『玻璃の天』によって醸し出された昭和初期の上層階級のおっとりとして伸びやかな雰囲気も、ヒロインの少女の機知も好ましく、手練(てだれ)の作者の研ぎ澄まされた筆捌きに感心した。けれどもヒロインの周囲に起こる事件はどうも奇想の色が濃くて、せっかくのおっとりした雰囲気とは合わないような気もするのだが。

万城目学氏の『鹿男あをによし』は愉快である。卑弥呼伝説や民間伝承(なまずによって地震が起こる)を、漱石の『坊つちやん』とカフカの『変身』の枠組みで処理したところに、作者のしたたかな知的膂力(りょりょく)を感じた。またこのごろ大流行の「高校運動部の感動小説」への風刺もあるし、なによりも、『坊つちやん』譲りのテンポのいい文章にずいぶん笑わせられた。鹿に変身してしまった主人公を救うのが、少女の接吻という仕掛けも効いている。こういう愉快な作品は顕彰する値打ちがある……と思ったが、後に述べる理由から、やはり最終的には票を投じなかった。

森見登美彦氏の『夜は短し歩けよ乙女』は、独特な物語性を備えた快作であって、美点は多い。たとえば、青春小説の独り善がりの青臭さを、わざと悪趣味に誇張して見せる批評的な態度、巡り逢い青春小説の御都合主義を徹底的にからかうおもしろさ、突拍子もないイメージをかたっぱしから言語化してしまうたくましさ、「大学・書物・教養」など、じつは通俗的で俗悪かもしれないものを、同じ通俗的で俗悪な手法で批評する知的な毒気、読者との距離をできるだけ縮めようと努力する文体、一つの事件を男と女の側から見ようとする複眼の手法……いいところを挙げると際限(きり)がないが、しかし評者は、最終的に、松井今朝子氏の『吉原手引草』のおもしろさと、そのみごとな仕上がりに勇んで票を投じた。

何者かが、何かの事件を追って、遊里で日々の糧をえている十数人に聞いて回っている。その聞き書きの連続が、この作品の構造ということになるが、語り手が変わるたびに、読者は吉原という一種の共同体の仕組みを理解して行き、それにつれて少しずつ「事件」が浮かび上がって行く。まことにおもしろい趣向である。しかも、読者は次第に「このようにしつこく聞いて回っている者は何者か」という疑問(興味)に捉われはじめる。これまた絶妙な仕掛けである。

そして読者はやがて、「遊里は一から十までウソの拵えものだが、その拵えものが、自分を拵え上げた現実に一矢むくいる」という、その現場に立ち合うことになる。ウソで世界の筋目を正すというのだから、痛快である。

今回の候補作はみんな上出来の作だったが、『吉原手引草』には、読み手を興奮させる小説の構造と小説の言葉があった。それも飛び切り上等の。

【この選評が収録されている書籍】
井上ひさし全選評 / 井上 ひさし
井上ひさし全選評
  • 著者:井上 ひさし
  • 出版社:白水社
  • 装丁:単行本(821ページ)
  • 発売日:2010-02-01
  • ISBN-10:4560080380
  • ISBN-13:978-4560080382
内容紹介:
2009年までの36年間、延べ370余にわたる選考会に出席。白熱の全選評が浮き彫りにする、文学・演劇の新たな成果。

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吉原手引草 / 松井 今朝子
吉原手引草
  • 著者:松井 今朝子
  • 出版社:幻冬舎
  • 装丁:文庫(326ページ)
  • 発売日:2009-04-01
  • ISBN-10:434441294X
  • ISBN-13:978-4344412941
内容紹介:
廓遊びを知り尽くしたお大尽を相手に一歩も引かず、本気にさせた若き花魁葛城。十年に一度、五丁町一を謳われ全盛を誇ったそのとき、葛城の姿が忽然と消えた。一体何が起こったのか?失踪事件の謎を追いながら、吉原そのものを鮮やかに描き出した時代ミステリーの傑作。選考委員絶賛の第一三七回直木賞受賞作。

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初出メディア

オール讀物

オール讀物 2007年9月

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