書評
『燃えるスカートの少女』(KADOKAWA)
エイミー・ベンダーの処女短篇集『燃えるスカートの少女』に収められた十六篇、そのどれもが、のっけから読み手のハートを鷲づかみにするストレートな文章から始まっている。たとえば、巻頭に置かれた「思い出す人」ならこんな具合に。
〈私の恋人が逆進化している。誰にも話していない。どうしてそんなことになったのかわからないが、ある日まで彼は私の恋人だったのに、その次の日には猿になっていた。それから一か月がたち、いまは海亀〉!? 意表を突き、驚きとともに物語の中に引きずり込む。まさに“つかみはOK”というべき出だしなのだ。
人間だった彼を見かけた最後の日、〈彼は世界はさびしいと思っていた〉。賢くなりすぎて、脳は大きくなるばかりだけど、〈考えがひしめきあって心が十分にないとき、世界は干上がり死んでしまう〉、そう話していたのだ。〈一日あたり百万年を脱ぎ捨て〉逆進化することで、考えることを少しずつやめていく彼――、ただそれだけのお話。なのに、どうしてだろう。サンショウウオになって海に泳ぎ出していく彼、それを両腕を振って見送る語り手の姿が、くっきりと網膜に焼きついて、そのイメージが幾度も脳裏によぎるのは。“世界のさびしさ”が、じわじわと心に浸透してくるのを感じるのは。
戦争で唇を無くした夫を持つ女性の深い喪失感を描いた「溝への忘れもの」。妊娠した母親から死んだはずの祖母が生まれてくる「マジパン」。父を亡くした日、図書館の小部屋で〈男のおちんちんで体をいっぱいにするのだ、もう中には他に何もなくなり、ただただおちんちんだけになるまで〉セックスを重ねる司書の哀しみを描いた「どうぞおしずかに」。ハイスクールを舞台にした、小鬼と人魚のささやかなエロティシズムにまつわる物語「酔っ払いのミミ」など。
どれもが、奇妙だけれど迷いのない真っ直ぐな一文によって自らの物語を語り出し、やがて天に昇る煙のように消えていく。そのニューロティック(神経症的)な味わい、寓話のような普遍性、驚きと笑いと哀しみと痛々しさ。この短篇集が差し出すのは、事実ではなく真実なのである。現実という騒々しく移り変わっていく事象の内側に、ひっそりと身を潜めた、世界を世界たらしめる、わたしたちをわたしたちたらしめる、決して変わらない何か。それを作者はすくい上げ、我々に差し出してくれるのだ。
たとえば、〈町には二人、突然変異の女の子がいた。ひとりは火の手をもっていて、もうひとりは氷の手をもっていた〉という、まるでグリム童話のような語りから始まる「癒す人」。火の手をもつ少女は物を燃やし、人を焼く。氷の手をもつ少女は人々を病やケガから救う。同じ突然変異でありながら、両極のありようを示す二人――。
グリム兄弟やアンデルセンの童話が、人間の本性や世界の本質を捉えて、時代を越え読み継がれているように、この傑作短篇もまた設定こそ奇抜でありながら、物語の底を静かに流れる寓意は普遍的だ。傷つける心と癒す心、野蛮な振舞いと穏やかな物腰、情熱と哀しみ。二分されがちな価値観や現象を、エイミー・ベンダーは背中合わせのひとつの真実として捉え直す。そして、『マクベス』の中で魔女が唱える「きれいは汚い、汚いはきれい」という台詞のごとき価値観の反転を引き起こすことで、わたしたちの心の目をまっさらにしてくれるのだ。
どの作品も短くて、易しく読める。けれど、だからこそゆっくりと味わってほしい一冊だ。抑制のきいた端正なスタイルで語られる、自由奔放で奇妙にねじれた物語が、あなたの網膜にくっきりと焼きつくまで。
【この書評が収録されている書籍】
〈私の恋人が逆進化している。誰にも話していない。どうしてそんなことになったのかわからないが、ある日まで彼は私の恋人だったのに、その次の日には猿になっていた。それから一か月がたち、いまは海亀〉!? 意表を突き、驚きとともに物語の中に引きずり込む。まさに“つかみはOK”というべき出だしなのだ。
人間だった彼を見かけた最後の日、〈彼は世界はさびしいと思っていた〉。賢くなりすぎて、脳は大きくなるばかりだけど、〈考えがひしめきあって心が十分にないとき、世界は干上がり死んでしまう〉、そう話していたのだ。〈一日あたり百万年を脱ぎ捨て〉逆進化することで、考えることを少しずつやめていく彼――、ただそれだけのお話。なのに、どうしてだろう。サンショウウオになって海に泳ぎ出していく彼、それを両腕を振って見送る語り手の姿が、くっきりと網膜に焼きついて、そのイメージが幾度も脳裏によぎるのは。“世界のさびしさ”が、じわじわと心に浸透してくるのを感じるのは。
戦争で唇を無くした夫を持つ女性の深い喪失感を描いた「溝への忘れもの」。妊娠した母親から死んだはずの祖母が生まれてくる「マジパン」。父を亡くした日、図書館の小部屋で〈男のおちんちんで体をいっぱいにするのだ、もう中には他に何もなくなり、ただただおちんちんだけになるまで〉セックスを重ねる司書の哀しみを描いた「どうぞおしずかに」。ハイスクールを舞台にした、小鬼と人魚のささやかなエロティシズムにまつわる物語「酔っ払いのミミ」など。
どれもが、奇妙だけれど迷いのない真っ直ぐな一文によって自らの物語を語り出し、やがて天に昇る煙のように消えていく。そのニューロティック(神経症的)な味わい、寓話のような普遍性、驚きと笑いと哀しみと痛々しさ。この短篇集が差し出すのは、事実ではなく真実なのである。現実という騒々しく移り変わっていく事象の内側に、ひっそりと身を潜めた、世界を世界たらしめる、わたしたちをわたしたちたらしめる、決して変わらない何か。それを作者はすくい上げ、我々に差し出してくれるのだ。
たとえば、〈町には二人、突然変異の女の子がいた。ひとりは火の手をもっていて、もうひとりは氷の手をもっていた〉という、まるでグリム童話のような語りから始まる「癒す人」。火の手をもつ少女は物を燃やし、人を焼く。氷の手をもつ少女は人々を病やケガから救う。同じ突然変異でありながら、両極のありようを示す二人――。
グリム兄弟やアンデルセンの童話が、人間の本性や世界の本質を捉えて、時代を越え読み継がれているように、この傑作短篇もまた設定こそ奇抜でありながら、物語の底を静かに流れる寓意は普遍的だ。傷つける心と癒す心、野蛮な振舞いと穏やかな物腰、情熱と哀しみ。二分されがちな価値観や現象を、エイミー・ベンダーは背中合わせのひとつの真実として捉え直す。そして、『マクベス』の中で魔女が唱える「きれいは汚い、汚いはきれい」という台詞のごとき価値観の反転を引き起こすことで、わたしたちの心の目をまっさらにしてくれるのだ。
どの作品も短くて、易しく読める。けれど、だからこそゆっくりと味わってほしい一冊だ。抑制のきいた端正なスタイルで語られる、自由奔放で奇妙にねじれた物語が、あなたの網膜にくっきりと焼きつくまで。
【この書評が収録されている書籍】
初出メディア

PHPカラット(終刊) 2003年10月号
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