書評
『京極為兼』(吉川弘文館)
皇統分裂の激動を生きた奇才歌人
時代はしばしば奇才を生む。中世の歌人藤原定家の曽孫である京極為兼はまさにその一人といえるであろう。鎌倉末期に清新な歌風を示して評価の高い勅撰和歌集『玉葉集』を編んだ歌人にもかかわらず、二度も流罪となり、配流先で亡くなっているのであるから。
土佐に配流される為兼が武士に囲まれ六波羅に連行されてゆく様子を見た日野資朝が、「あなうらやまし。世にあらん思ひ出、かくこそあらまほしけれ」と語ったことを兼好法師の『徒然草』は記している。
資朝は、伏見天皇の股肱(ここう)の臣として生きてきた為兼を我が身にひき比べてこう語ったのであろう。やがて自らは後醍醐天皇の「天皇御謀叛」に関わった張本として処刑されている。
鎌倉時代の末期にはこうした人物を輩出したが、その嚆矢(こうし)となった為兼であれば、その存在に興味がひかれないわけはない。
しかし本書はその為兼の生涯を、和歌の活動を中心にしながら丹念に追ってゆく。著者は中世の歌壇史研究の第一人者であって、これまでの為兼周辺の和歌に関わる膨大な研究を紹介しつつ、また史料をしっかり読み込んで、為兼の伝記を著したのである。
その誠実な態度は一見すると、やや煩(わずら)わしさをおぼえなくもないのであるが、和歌や歌合をどう扱うのか、そこから何を読みとるのか、といった研究の方法がまことによくうかがえ、その手際は見事である。また奇をてらわずに真摯に問題を解明しているので、これまでの研究の総括となっており、今後の研究の確かな基礎をなすものとなっている。
為兼の歌は祖父の京極為家の影響を受けており、政治的には関東申次(もうしつぎ)であった西園寺実兼の「家僕」として、また伏見天皇には東宮時代から仕えて密着し、和歌の場を獲得するとともにその股肱の臣となり、持明院統の皇統に仕えて忠臣として行動してきた。
持明院統は後深草上皇が我が子の伏見に皇統を継承してほしいという強い願いとともに成立した皇統で、後深草・伏見ともに文化面に大きな力を注いで存在をアッピールしたのであるが、為兼はそこに和歌の面で大きく関わるなかで権勢を握った。和歌の力が政治を動かす極めて特異な状況が生まれたのである。
伏見天皇の子花園天皇は、為兼について「才学無しと雖も直臣なり。又深く忠を存する人なり。歌道においては只一人なり」と適確にその活動を評している。
皇統が大覚寺統と持明院統に分裂するなか、貴族の家でも二つ、三つに分裂するような状況であった。藤原定家の御子左家(みこひだりけ)においても嫡流の二条家は大覚寺統に仕え、冷泉家は幕府に仕えるといったなかで、京極家の為兼は身命を捨てて一途に持明院統の伏見天皇に仕えたのである。
そのことは一遍の踊り念仏や禅宗と並んで多くの批判を浴びた新風の和歌の形成と深い関係があったろう。延慶の両卿(りょうきょう)訴陳状に見られる、旧風の二条派との激しい争いを経て獲得した歌風である。
その影響はどうであろうか。最初に流された佐渡から帰還した為兼は、伏見院周辺の和歌の進歩に驚いたに違いないという指摘は興味深い。伏見院や永福門院、姉為子などの女性の和歌に優れた歌が生まれていたのである。
『玉葉集』には他の勅撰集と比較して多くの女性歌人の歌が含まれていることとも関連していよう。為兼の「心のままに」歌を読むという主張が女性たちの心と響き逢うものがあったようである。そしてこの後、女性たちの文化活動は衰退してゆくことになる。
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