書評

『越境する天使 パウル・クレー』(春秋社)

  • 2017/11/07
越境する天使 パウル・クレー / 宮下 誠
越境する天使 パウル・クレー
  • 著者:宮下 誠
  • 出版社:春秋社
  • 装丁:単行本(305ページ)
  • 発売日:2009-12-01
  • ISBN:4393955064
内容紹介:
力なき者がそれでも生きつづけるための「悪意と戦略」。迂回、先回り、横道の探索-画家のぎりぎりの闘いの痕跡を追いかけた「批評家」が、私たちに宛てた/仕掛けた最期の「手紙」。
二〇〇九年五月に急逝した宮下誠氏の遺著である。

二〇〇〇年四月に別府大学助教授から本学文学部哲学科助教授として美学・芸術学コースを私とともに担当すべく赴任した氏は、私に将来の著作の計画を熱っぽく語ってくれたことがある。『逸脱する絵画』『迷走する音楽』『越境する天使』というタイトルの三部作を刊行したいというのがその内容で、「逸脱する」「迷走する」「越境する」という氏独特の言語表現に私はいささか感心し、そこに氏ならではの芸術学的立ち位置(スタンス)を垣間見た思いがしたものだった。

逸脱する絵画  / 宮下 誠
逸脱する絵画
  • 著者:宮下 誠
  • 出版社:法律文化社
  • 装丁:単行本(377ページ)
  • 発売日:2002-05-01
  • ISBN:4589025787
内容紹介:
本書はドイツ系美術史学の若き俊秀が前代未聞のスタイルで構成してみせた「20世紀芸術学講義」の第1弾である。

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迷走する音楽―20世紀芸術学講義〈2〉 ) / 宮下 誠
迷走する音楽―20世紀芸術学講義〈2〉 )
  • 著者:宮下 誠
  • 出版社:法律文化社
  • 装丁:単行本(319ページ)
  • ISBN:4589027801
内容紹介:
序奏 迷走する「ものがたり」第1章 「ものがたり」の過剰第2章 「ものがたり」の簒奪第3章 「ものがたり」の断裂第4章 「ものがたり」の逡巡後奏 「ものがたり」の終焉

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氏のそうしたもくろみは、初めの二著に関してはほどなく実現し、二〇〇二年に『逸脱する絵画』を法律文化社から、また二〇〇四年に『迷走する音楽』を同じ書肆から立て続けに刊行して、新たな芸術学の徒の存在を鮮烈に印象づけることになった。ちなみに処女作たる『逸脱する絵画』の帯には、「芸術学の分野における、驚くべき語り部の登場」という私による惹句が踊っている。実際、氏はその膨大な読書量に支えられた縦横無尽の語り口によって、二十世紀芸術の変容を剔抉してみせたのである。

第三の著作たるべき『越境する天使』は、しかしなかなか日の目を見なかった。貴重な書き手として認知された氏は、光文社という新たな書肆と連係して、『20世紀絵画』(二〇〇五年)、『20世紀音楽』(二〇〇六年)、『ゲルニカ』(二〇〇八年)、そして『カラヤンがクラシックを殺した』(二〇〇八年)の四冊の新書版を速射砲のように出した。『20世紀絵画』は『逸脱する絵画』の、『20世紀音楽』は『迷走する音楽』の一般向けの語り直しといった趣の書物だが、通常のモダニズム論的美術史ないし音楽史とはやや位相を異にする見解の含まれる問題作で、そのことはピカソとカラヤンとに個別的に視点を据えた次の二著によってさらに際立たせられたといっていいだろう。毀誉褒貶相半ばする、というよりむしろ激しい批判を浴びたと思しい二著を、私などはかえって興味深く読んだが、いまこれらの二著の内容に立ち入る余裕はない。

20世紀絵画 モダニズム美術史を問い直す  / 宮下 誠
20世紀絵画 モダニズム美術史を問い直す
  • 著者:宮下 誠
  • 出版社:光文社
  • 装丁:新書(366ページ)
  • 発売日:2005-12-13
  • ISBN:4334033342

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20世紀音楽 クラシックの運命  / 宮下 誠
20世紀音楽 クラシックの運命
  • 著者:宮下 誠
  • 出版社:光文社
  • 装丁:新書(446ページ)
  • 発売日:2006-09-15
  • ISBN:4334033725

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ゲルニカ  ピカソが描いた不安と予感  / 宮下 誠
ゲルニカ ピカソが描いた不安と予感
  • 著者:宮下 誠
  • 出版社:光文社
  • 装丁:新書(225ページ)
  • 発売日:2008-01-17
  • ISBN:4334034365

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カラヤンがクラシックを殺した  / 宮下誠
カラヤンがクラシックを殺した
  • 著者:宮下誠
  • 出版社:光文社
  • 装丁:新書(288ページ)
  • 発売日:2008-11-14
  • ISBN:4334034837

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氏は、しかしその一方で、氏本来の研究対象であるパウル・クレーについての地道な研究を着々と押し進め、ピカソとカラヤンとに関する二著を出した同じ二〇〇八年に、大著『パウル・クレーとシュルレアリスム』を水声社から刊行した。A5判で六二一頁に及ぶ、この文字どおりの労作については、本誌平成二十年十二月号において、ダダ・シュルレアリスムの専門家である早稲田大学教授の塚原史氏による懇切な書評がなされている。また、この書物のドイツ語版に当たる学位請求論文が、宮下氏がかつて留学していたスイスのバーゼル大学に提出され、哲学博士号を授与されるにいたった。『シュルレアリスムのアメリカ』という書物を計画していた私と氏とが、同じシュルレアリスム関係の書物を同時に出せたらいいねなどと話し合ったこともあったが、拙著はやや遅れて二〇〇九年にみすず書房より刊行されたことを付け加えさせていただく。

パウル・クレーとシュルレアリスム / 宮下 誠
パウル・クレーとシュルレアリスム
  • 著者:宮下 誠
  • 出版社:水声社
  • 装丁:単行本(621ページ)
  • ISBN:4891766735
内容紹介:
1925年、パリ。シュルレアリストたちの熱狂的なクレー賛美は、バウハウスの理知的な「フォルムの達人」としてのクレー像を隅に追いやり、その後のクレー批評に、神秘的で幻想的な言辞をちりばめさせることとなる…。「クレー=シュルレアリスト」像の起源と伝播の実態を緻密に描き出し、美術批評という言説が、いかに政治的、党派的装置となりうるかを浮き彫りにする、スリリングなクレー受容史研究の記念碑的大著。

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シュルレアリスムのアメリカ / 谷川 渥
シュルレアリスムのアメリカ
  • 著者:谷川 渥
  • 出版社:みすず書房
  • 装丁:単行本(291ページ)
  • 発売日:2009-01-09
  • ISBN:4622074095
内容紹介:
ブルトンvsグリーンバーグ。第二次大戦のさなかニューヨークへ亡命したシュルレアリストたちは、新大陸から何を受け取り、何をもたらしたのか。シュルレアリスムと戦後アメリカ美術を架橋する。

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『パウル・クレーとシュルレアリスム』という著作は、アンドレ・ブルトンらフランスのシュルレアリストたちがクレーという異国の画家をどう扱い、そしてフランスとドイツで開かれた展覧会でどのような批評がなされたかを克明に追った実証的な研究であり、資料蒐集と文献の読み込みにおいて比類のない精緻さを示しているが、しかし氏自身がクレーという画家について、そしてその作品について、どう考え、どう位置付けているのか、いまひとつつかめないもどかしさがあった。大著であるだけに、そうした不満はいっそう募ったのである。

『越境する天使 パウル・クレー』は、おそらく氏自身も留保していた、画家と作品とについての直接的言及――「解釈」というなら「解釈」といってもいいが、たんにそれだけではない、むしろクレーの作品に託した(唐突なようだが、『古今和歌集』「仮名序」における、「心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり」という紀貫之の言葉さながら)、いわば氏の世界観の披瀝の特権的な場所(トポス)となっている。私に語った三部作の最後を飾る著作を、氏はこういうかたちで用意していたわけである。

クレーには「天使」という言葉をタイトルに用いた作品が数多くある(《忘れっぽい天使》《なりたての天使》《新しい天使》《天使候補》《天使、まだ女性的な》《天使、まだ手探りの》《武装した天使》《死の天使》……)が、氏が本書のタイトルとした《越境する天使》という作品は存在しない。ヴァルター・ベンヤミンは《新しい天使》にこだわったけれども、氏はあえて『越境する天使』という。「逸脱する」、「迷走する」、そして「越境する」。これは氏自身の表現なのである。

「クレーは、これまで一般に考えられてきたような、天使のようなイノセントな画家でもナイーヴな画家でも金輪際、ない」と氏は書いている。私などはクレーの作品にいつもなにか不可解なもの、居心地の悪さ、あるいは薄気味悪さのようなものさえ感じてきたので、氏のいう「一般」の内実は知らず、次に続く「クレーは、小心者でありながら、いや、そうだからこそ猜疑心に塗れ、狡猾で、陰険、策略家であり、詐欺師でさえある」という氏の穏やかならぬ言葉にもむしろ素直に領くことができる。実際、《忘れっぽい天使》や《なりたての天使》といった作品の、「無垢を装った悪意と怨嗟に満ちたクレーの絶望」を見逃してはならないだろう。本書の「序文」に相当する「クレー観の修正」という文章において、氏は強調する。「これまでの多くのクレー観は、絶対的に否定されねばならないのだ」と。

だが、本書において氏はいうところの「越境する天使」の何たるかに直ちに歩を進めるわけではない。肝腎のクレー論に入る前に、実に六篇の文章が並べられている。別々の時期に書かれたらしい、ベラスケス、エルンスト、ピカソら「表象の策士」たちをめぐるそれらの文章は、確かに「クレーを読むための」「幾重にも施され」た「仕掛け」かもしれぬが、本書全体の三分の一弱を占めるこの部分を読み進めるには多少の忍耐が必要かもしれない。

氏のいう「越境する天使」なるコンセプトがいちばんわかりやすく説明されているのは、つまるところ、《踏み越えるもの》というタイトルの一九一五年の作品と、そのヴァリアント《出て行く》(一九二三年)というリトグラフについての文章においてであろう。航空機からまかれた広告ビラの裏側を擦って、その「むこう」、つまりビラの内容が分かるまで周到に削り、さらには一部に穴を開け、そこに幼稚に見せかけながらもきわめて繊細な手捌きで、扉と、それを踏み越えようとする人物を描いた《踏み越えるもの》。しかしこの人物はどこに向かって踏み越えようとしているのか。あるいは《出て行く》における人物は、「むこう」に出て行こうとしているのか、「こちら」に出て来ようとするのか。扉によって境界付けられた足が両足ともに「見える」という巧妙な詐術によって、「出て行く」先がぼかされているのだ。氏は、これらの作品の背後に、クレーのバウハウスでの確執や第一次大戦中の特に航空機への思いを、さらには男性原理的、右派的な自己と左派的な態度との「内面の葛藤」を見てとる。「おもて」と「うら」、「むこう」と「こちら」の両方向に引き裂かれ、二極に揺動し、ついに態度決定しえない、いやあえてしようとはしないクレーの「処世術」が描かれているというわけである。してみれば「越境」とは、ひとつの場所から別の場所へと決定的に移行することではない。それは、ひとつの場所を越え出て行こうとしながら、ついにみずからの拠って立つ場所を確保しえないことの、そうした寄辺(よるべ)なさの謂にほかなるまい。

「越境、逸脱、回避、迂回、非論理的な飛躍、跳躍(跳び越え)」と氏は書いている。クレーの個々の作品についての考察は、通常の図像学的解釈を超えて、「おもて」と「うら」、「むこう」と「こちら」のみならず、さらに「うち」と「そと」、「生」と「死」、「生成」と「衰退」、「創造」と「破壊」、「生産」と「解体」、「死滅」と「再生」をめぐって続けられる。「越境する天使」の「天使」とは、それら二極のどちらにも自己の場所をもたない、あるいは二極の間を彷徨う「存在不可能性」の存在の逆説的なメタファーであることになろう。氏が「どっちつかずのものたち」と呼ぶ「境界線上」の、あるいは「中間領域」の奇妙な生きものたちに、クレーがいたくこだわったのも道理である。

氏はこう書いている。
 
如何に暢気でのんびりして見える天使であってさえも、その心に吹く嵐は激しく、絶望の深度は限りなく深いのである。それを「越境」に「越境」を重ね、常に「境界線上」に「踏みとどまろう」、「決定的なこと」を「回避し続けよう」とするクレーの創造世界の住人たちは、結局、その居所を明かさず、存在の意味を明かさず、「どこでもあって、どこでもない」、あの冥界に引き籠もってゆくのである。尤も、冥界でさえ、いったいどこにあるのか、わたしたちには知る由もないのだけれども。

本書の「前口上」において、「訳知り顔の評論家」、「文学者紛い」、「似而非学者」、「愚衆たち」「『自称』芸術家たち」を、外連味(けれんみ)たっぷりに激しく指弾した氏は、こうしてみずからをクレーの「天使」に重ね合わせるように、「こちら」から「むこう」へ、「どこでもあって、どこでもない」あの冥界へと「越境」してしまった。本書は、文字どおり氏の白鳥の歌である。冥福を祈る。

【この書評が収録されている書籍】
書物のエロティックス / 谷川 渥
書物のエロティックス
  • 著者:谷川 渥
  • 出版社:右文書院
  • 装丁:ペーパーバック(318ページ)
  • 発売日:2014-04-00
  • ISBN:4842107588
内容紹介:
1 エロスとタナトス2 実存・狂気・肉体3 マニエリスム・バロック問題4 澁澤龍彦・種村季弘の宇宙5 ダダ・シュルレアリスム6 終わりをめぐる断章

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越境する天使 パウル・クレー / 宮下 誠
越境する天使 パウル・クレー
  • 著者:宮下 誠
  • 出版社:春秋社
  • 装丁:単行本(305ページ)
  • 発売日:2009-12-01
  • ISBN:4393955064
内容紹介:
力なき者がそれでも生きつづけるための「悪意と戦略」。迂回、先回り、横道の探索-画家のぎりぎりの闘いの痕跡を追いかけた「批評家」が、私たちに宛てた/仕掛けた最期の「手紙」。

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國學院雑誌

國學院雑誌 2010年9月

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