観る側の解釈、助けもすれば拘束もする
展覧会で絵だけを観る人はほとんどいない。多くの場合、作品の脇の小さな掲示でタイトルや制作年、素材を確認し、数行の説明に目を通す。観客が多くて頭越しに眺めるしかなかった場合でも、印象に残ればあとから目録でタイトルを確かめる。こういう感じの絵だったという記憶だけでは物足りないのだ。しかし、タイトルを知った瞬間、作品との個人的な対話がその言葉に吸収されてしまう。なにが描かれ、どんな意味がそこにこめられているのか。人は必ず意味を求めるから、<無題>や通し番号のような形式であっても立派な作品名になる。言葉からは逃れようがない。では、絵画のタイトルなるものは、いつから付されるようになったのか。また、それは画家自身が考え、制作意図を正しく反映しているものなのか。
本書はこうした素朴な疑問に答えてくれる。絵画を正面から論ずるのではなく、タイトルとの「近くて遠い関係」を、各章の「タイトル」と小見出しを見ればおおよその流れが摑めるよう三部で構成されているのだが、最初に明かされるのは、十八世紀以前の西洋絵画にタイトルはほとんど付されていなかったという事実である。描く側と受ける側とのあいだには、主題や描き方において、相互理解の上に立つ合意があった。パトロンと画家の関係もそうしたものだ。ところが絵画の売買が行われ、市場に流通するようになると売り立ての目録が必要になる。タイトルを記したのは、画家ではなく公証人や画商らだった。
十八世紀には売るより人々に観てもらうための展示が一般化する。展示と言っても現在の美術館のようにではなく、壁に隙間なくびっしり並べていたので、どれが何の絵なのかを識別するための資料が作られた。画家はここでも人任せで、タイトルというよりその絵が何を「表している」かが記録された。一七五三年のフランス・アカデミーの図録にシャルダンの絵が数点あり、うちひとつに与えられたのは「一枚の絵、読書をしている哲学者をあらわす」という文言だった。
画家はまだ自らタイトルを付けない。その役を担ったのは、流通範囲を拡げるのに用立てられた複製の作り手である。一七六五年、グルーズがサロンに出品した<恩知らずの息子>と<罰せられた息子>という一対の水彩画は、十年以上のちに版画になった際、前者が版画家の考えた<父親の呪い>に変更されている。こんなふうに、タイトルは姿を変えていくのだ。
タイトルを付けない時代の巨匠レンブラントの作品も、しばしば呼称を変えていった。一七九三年、ルーヴル美術館が聖家族を描いた絵を取得した際、宗教色を抜かれて<室内にいるオランダの家族>とされ、その後<大工の家族>と改名されて、十九世紀半ばまでカタログにそう記されていた。著名な<夜警>のように、描かれているものとタイトルがあまりにそぐわないと議論されながら、結局は親しまれてきた名を外せないという例もある。オランダ国立美術館が<フランス・バニング・コック隊長の市警団、通称「夜警」>としているのは最大の譲歩だろう。
画家がタイトルを考えるようになってからも外からの命名はつづいた。作品内容の解釈が、タイトルに影響されて変わってしまうこともある。興味深いのは、抽象画においてもそれが起きることで、ことにポロックの作品をめぐる逸話は皮肉な笑みを誘う。一九四三年に発表された一枚を、画家は<モービー・ディック>と呼んでいた。メルヴィルの『白鯨』にちなんだものだ。ところがある学芸員がそれに<パーシパエー>というタイトルを冠したのである。鯨から雄牛と交わった女神への転換をポロックは認めたが、真に賛同していたかどうかは怪しい。その証拠に、画家は「一体全体、パーシパエーって誰?」と問うたという。
読者として虚を突かれたのは、自分でタイトルを考えるようになった画家たちが前提としていた事実についての指摘である。文字を読めること。文字を解読できるがゆえに、観る者はタイトルの意味に誘導され、解釈に異を唱えたりできる。識字は想像力を開き、またそれを拘束する。宿命的で、しかも幸福な翻弄といったところだろうか。
なにが描かれているのか判然としない絵をさらに茫漠とさせるようなタイトルを付したターナー、<現実的寓意(アレゴリー・レエル)>という撞着的なタイトルを掲げたクールベ、絵の中に直接タイトルを書き込んだホイッスラー、「言葉とイメージの当惑するような結びつきの前で、見る人を能動的に阻止するタイトル」を選んだマグリット。締めくくりはジャスパー・ジョーンズである。旗を描いた絵に<旗>というタイトルをつけることで、すぐにも意味を摑みたい人の気持ちを萎えさせ、絵をいつも《「陳述を遠ざける」状態にしておきたい》と彼は語っている。本書によって展覧会の観客の疑問はある程度解決されたが、新たな問いがわきあがる。陳述の誘惑に打ち勝ち、絵画を絵画として純粋に愛することは、本当に可能なのかという問いが。