女学生らが、担わされた戦争
風船爆弾とは、戦争中に作られた気球爆弾で、偏西風に乗って敵の本土アメリカまで飛び、直接攻撃を仕掛けることを目的として作られた。「ふ号」兵器と呼ばれ、製造は日本各地でおこなわれたという。ドローン開発よりはるか昔に本当にあった無人爆撃で、実戦に使われ犠牲者も出している。爆弾を製造したのが全国の女学生たちだったことも、戦争が長引いていたら想像するのも恐ろしい作戦を担う予定であったことも、本書を読むまで知らなかった。
小説は、関東大震災の12年後から始まる。1935年。震災から「復興」した東京に新しいビルが並び、小学校に入学したばかりの幼い「女の子たち」が、嬉しそうに真新しい制服やよそゆきに身を包む姿が活写される。このあどけない少女たちが主人公だ。「わたし」と一人称で描写される複数の彼女たちは、それぞれ楽しげな市民生活を享受しながら育っていく。それでも二・二六事件は首都を震撼させ、日中戦争の火ぶたが切られる。真珠湾攻撃があり、やがて彼女たちは風船爆弾を作るために、もはや劇場ではなく兵器工場と化した「東京宝塚劇場」に招集される。
小説は彼女たちの生活に何があったのかを、淡々と、羅列するように辿る。雙葉や麴町や跡見に通う彼女たちは、憧れの制服を着ることができなかった。制服を着られなかったこと、風呂に入れないことを嘆くのを読みながら気づいた。彼女たちはみな、「一番きれいだったとき」を戦争に奪われたと書いた詩人と同世代なのだ。
宝塚少女歌劇の物語がもう一つの柱になっている。タカラジェンヌが戦時中にかくも多くの「慰問」をこなさなければならなかったことも、本書で知った。日独伊防共協定の友好のためにも海を渡るし、帝国軍のいくつもの進軍先に派遣された。小説内では「少女たち」と表されるタカラジェンヌたちと、風船爆弾を作った「わたし」たちは、戦時にともに重要な役割を担った/担わされた「女の子たち」だった。その事実が、胸に重く残る。
この作品を稀有なものにしていることの一つに、文体がある。ことに、「少女たち」や「わたし」と並んで主語として採用されることの多い「わたしたち」。たとえば「兵隊」は、この小説では「わたしたちの兵隊」と書かれる。戦時性暴力は「わたしたちの兵隊の」所業として言及され、植民地支配は「わたしたちが占領していた」場所として語られる。象徴的なのは「わたしたちのいまは、もはや戦後ではない、ということだった。/わたしの戦後は、終わらない」という文章だろう。「わたし」(個人)の感覚や希望や体験と、「わたしたち」(国)が行うことはしばしばズレる。それでも「わたしたち」の責任について考えることからは逃げられないと感じさせられた。私個人も「わたしたち」の一員であるから。
小説は「わたし」たちの戦後を描き、現代に到達する。
戦後はもうすぐ80年になる。この小説のなかの「わたし」たちは、いま、96、7歳になっている。少年兵たちとともに、戦争に加担した/させられた最後の世代だ。膨大な資料の渉猟と聞き取りをもとに、「女の子たち」の戦争を小説化した、その力業に圧倒されつつ読み終えた。