ルーヴル美術館の展示法
パリで感じるのはフランスは「文化は金になると気づいた最初の国」であるばかりか、「もっと金をかければもっと儲かる」という高度資本主義の公理を最初に認識した国でもあることだ。藤原貞朗『ルーヴル美術館 ブランディングの百年』(講談社選書メチエ 二〇〇〇円+税)はこうした文化戦略思考を持った人々がいかにしてルーヴル美術館を「金になる国家財産」へと育てていったか、その歴史を辿った新型の美術史である。
ルーヴル宮が公式にルーヴル美術館となったのは共和政開始直後の一七九三年のこと。「国王が占有したコレクションを『解放』して共和国市民の共有財産とし、公開する」ことが宣言され、サロン・カレとグランド・ギャラリーが市民に公開されたのだが、実際には一般公開は一八五五年までは日曜のみで、平日は模写をする芸術家の卵と外国人旅行者に限定されていた。
また市民が興味を示したのは、年一回サロン・カレで開かれ、後にその場所にちなんでサロンと呼ばれるようになった官展であった。
ひとことでいえば、ルーヴルは美術館とはなったが、だれもそれが国家文化戦略の一翼になり得るとは理解していなかったのである。唯一の例外がナポレオン三世で、ルーヴルに大改造を施し、今日あるような建物の姿をつくり出したが、「それは、美術館としてではなく、政務や外交や社交の場としてであった」「整えられたのは外観だけで、内実は美術館ではなかった」。
ルーヴルが実質的にルーヴル美術館になったのは第三共和政の時代からである。この時期に貴重な個人コレクションが多数国家に寄贈され、ルーヴルは展示室としての機能を果たすことを期待されたが、このコレクションの一括展示が新たな問題を引き起こす。
急増する収蔵品が文字通り山積みとなって、壁には三段・四段と絵画作品が大量に掛けられ、彫刻室には名作も複製品も区別なく林立し、目当ての作品を見つけ出すのは一苦労だった。
一九二〇年代に入ると、作品を編年的、国籍別に分類し、秩序ある動線のもとに整えるドイツ式展示法が良しとされ、ルーヴル式一括展示法は批判されるようになる。そこで、フランス政府は一九二九年に「秩序だった展示方法を採用し、訪れる観光客に最良の展示空間を提供する」タイプの近代的美術館にルーヴルを転換する計画を発表する。
本書のポイントはルーヴル美術館のブランディング戦略の出発点としてこの一九三〇年代のルーヴルの大改造を位置付けたことだろう。
現在の巨大ブランド美術館となったルーヴルの直接の出発点は一九八〇年代のグラン・ルーヴル計画に求められるだろうが、多額の公的資金を投入してフランス文化をブランディングする手法は一九六〇年代のマルローの政策に遡る。そして、そのマルローの発想源となっていたのは、彼の思想形成期である一九三〇年代のルーヴル大改造であった。
著者によると、一九三〇年代大改造の特徴は三つあった。
①絵画の四段掛けをやめ、白壁に作品を一点ずつ一列に並べ、照明装置を整備。
②ルーヴルの顔になるような大傑作を選び、これをひときわ目立つように強調展示する。
③印象派をルーヴルに包含収容する。
このうち、①と②は他の美術館も右へならえとなったことからルーヴルの先駆性は忘れられた。③はルーヴル美術館が印象派の寄贈に難色を示し、展示はリュクサンブール宮に限定という方針を貫いてきたことからすれば画期的だったが、第二次世界大戦勃発に伴い印象派疎開作戦が展開され、また戦後はジュ・ド・ポーム印象派美術館とオルセー美術館が受け入れ先となったため、印象派のルーヴル美術館収容期間は十年に満たなかった。
つまり、①②③とも一九三〇年代大改造のオリジナリティを忘却させているだけなのだが、じつはこのうちの②こそが、マルローやジャック・ラングが後に採用したフランス的ブランディング戦略の基本となったのである。
そして、②はサモトラケのニケ像「勝利の女神」がルーヴルの顔に選ばれ、ダリュー大階段上のホワイトキューブのモダン空間にポツンと一体だけ屹立するよう設置された瞬間に始まったと言っていい。
ニケ像は一八六三年にエーゲ海の孤島で発見され、一八八〇年頃にルーヴルに収蔵されたが、しかし、そのときはまとまって残っていたのは下半身の彫像だけで、それ以外の部分はその後の発掘で発見された破片を組み合わせたり、あるいは想像でつくりだした「復元」にすぎないのだ。
復元した左翼を写し鏡のように反転させて型を取り、レプリカを作ったという。つまり、現在の右翼は想像の産物である。
十九世紀に特有のこの「復元」の思想も重視すべきだが、もっと重要なのは頭部と腕を復元せずに想像に委ねるという決断を下したこと、さらにこれをホワイトキューブのモダン空間に一体だけ屹立させることを選んだ一九三〇年代の大改造の「思想」であった。その理由は以下に拠る。
①頭部と腕はつくらず観る者の想像力に委ねることで、古代の美が相対的に復元されるのではなく、いかなる時代にも存在しなかった美が近代人の創出した美として現出する。
②それと連動するように展示空間も変化する。というのも大改造前には背後の壁にはニケ像が描かれ、右隣にはスフィンクス像、左隣にはデルフォイ神殿の彫像と神殿のレプリカが配置されてニケ像の時代背景を美術史的に解説していたのだが、一九三四年の改編ではこれらは撤去され、ニケ像単独での展示となった。
③この展示方法は、作品が歴史的コンテクストなしで、「ただ一点の作品のみで芸術作品たり得る」ということを主張し、「芸術の自立」を象徴している。
④こうして転生を遂げたルーヴル美術館は「ただ過去の芸術作品を並べるだけの施設ではなく、新しい美的価値を次々と創出する場所であり、未来に開かれた可能性のある近代的トポスである」と自ら宣言したのである。
やがてこの種のルーヴル的キュレーションは「ミロのヴィーナス」や「モナリザ」にも適用されるが、それは同時に「訪問客の誘致」へとつながるものだった。なぜならルーヴル見学に割ける時間が限られた観光客にとって「ルーヴルではこれを観ろ」と命令してくれる傑作主義は大歓迎だったからだ。
この傑作主義による観光客誘致が全面開花するのは、ドゴール政権の文化大臣マルローの「モナリザ」外交をへて、ミッテラン政権下で文化相ジャック・ラングがグラン・ルーヴル計画を打ち出してからである。
ミッテランのグラン・ルーヴル計画は、フランス文化復興を目的とした社会主義的国家保護の十年計画だった。(中略)ルーヴルだけは世界一の称号を獲得し、そして、そうあり続けることにこだわったのである。
社会主義的な国家財産保護政策が、金が金を生む高度資本主義装置と結びついて、いまあるようなルーヴル美術館(というよりもルーヴル美術館主義)を生み出したのはいかにも皮肉だが、しかし、歴史は往々にしてこうした逆説に満ちている。
傑作主義という近代的キュレーションの思想が社会主義政策を通じて「文化は金を生み、その金がさらなる投資を呼び込む」という高度資本主義原理と結びつく摩訶不思議な過程の原点を、サモトラケのニケの復元とプレゼンテーションの方法の中に見いだすという大胆な発想が素晴らしい。
キュレーションを重視する新美術史の傑作と呼んでいいだろう。
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