書評

『ナポレオン帝国』(岩波書店)

  • 2017/08/24
ナポレオン帝国  / ジェフリー・エリス
ナポレオン帝国
  • 著者:ジェフリー・エリス
  • 翻訳:杉本 淑彦,中山 俊
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:単行本(268ページ)
  • 発売日:2008-12-18
  • ISBN-10:4000272012
  • ISBN-13:978-4000272018
内容紹介:
ナポレオンはフランス革命の継承者だったのか、それとも破壊者だったのか。大帝国の名のもとに行われた彼の支配は、ヨーロッパのそれぞれの地域に何を遺産として残したのか。ナポレオンが目指し、成し遂げ、断念したものは、彼が築き上げた帝国の実態にこそ表れている。近年目覚ましい展開を見せる新たなナポレオン研究の成果を見渡し、行政組織、法制度、軍事、経済、教会と国家、帝国エリートの編成、従属国支配など、主要なテーマに沿って、ナポレオン体制の現実を総合的に解説した得がたい一冊。

「世界が一変」ロマンチック史観の解体

歴史のアマチュアとして大いに不満なのは、日本には、様々な学説を要約・整理して「いま、どんな学説が台頭し、新たな論点を提起しているのか」ということを素人にもわかりやすく解説してくれる学術的概説書がないことである。狭い範囲の専門書か、さもなければ通俗概説書しかない。この点、英語圏には、ロバート・ダーントンのように様々な学説の解説を行いながら、その比較・判定を通して、歴史の問題点を的確に教示してくれる歴史家がいるので、たいへんにありがたい。著者もそうした一人らしく、ナポレオン帝国は果たしてフランスに根源的な変化をもたらしたのか否かという点について、軍隊、文官組織、法制、経済、文化などの面でのバランス・シートを作りあげ、ナポレオン研究の現状についての的確な見取り図を書き上げている。

その結論は、ナポレオンの登場で社会のすべてが「一変」したのではなく、すでに旧体制下か大革命時から始まっていた変化が「継続」されたのであるという一点に集約される。これが、ポスト冷戦の新しい歴史学の波のようだ。たとえば、変化要因の中でも最大のものは亡命貴族・教会の財産売却によって生じた土地流動化と行政・司法組織の改革だろうが、これについて著者はこういう。

ナポレオンは、事態のこのような展開を遺産の一つとして受け継ぎ、革命期の土地処分に対して、これを『既定事実』と受けとめ容喙(ようかい)しないよう、慎重な態度を持したのである。彼はまた、行政官と司法官の処遇についても、同様の現実主義策を採ることになる。

彼らの多くは、かつてはブルボン朝に仕え、その後は革命期のさまざまな議会で議員になり出世街道を歩んできた人たちであった。ナポレオンが受け継いだ遺産と、ナポレオン自身の業績とのあいだの太いつながりが、ここにも見られる

これは、ナポレオン登場で世界が一変したとするロマンチック史観に対する良き解毒剤となる。例えば無一物の若者が軍隊で才能と勇気を武器に一気に将軍にまで上りつめるというナポレオン軍の神話は将校団の出身階級と昇進基準の分析から次のように解体される。

それ(大陸軍将校集団についてのナポレオンの構想)は、旧貴族と有能なブルジョワジーを混ぜ合わせ、帝政、名士という新階層を生み出そうという構想だったのである。ナポレオンが理想としたことは、名誉を重んじる旧来の倫理観と、金権を是とする新来の信条とを結合させ、それを重要な選別基準とすることだった

つまり、ナポレオンの軍隊は「名誉の軍隊」であったよりも、勲章や報酬に敏感な軍隊であったのだ。では、ナポレオンはどんな報酬を与えたのか? 帝政貴族という爵位だけではなく、金銭的な報酬が主だったが、その財源はといえば、じつは、亡命貴族の没収財産ではなく、イタリアやドイツの征服地から搾取した土地・資産からなっていた。亡命貴族の財産は、意外にも、貴族自身が様々な抜け道を使って買い戻していたのである。

さらに、著者はナポレオンの聖域である軍事的栄光にも見直しを迫る。「ナポレオン自身が戦場で手にした成功には、なにかその場しのぎの結果だった、という印象がぬぐいきれない」。すなわち、ナポレオンの勝利は綿密な作戦計画によるのではなく、戦場における実践向きの直感によるものであり、その証拠に「戦術面でナポレオンが敵に対して持っていた優位性は、時代が進むにつれて低下していったようにも思われる」。

しかし、こうしたナポレオン神話の解体に対しては、次のような反論が可能かと思われる。将官クラスは欲得ずくだったかもしれないが、兵士クラスは純粋であったと。

ところが、これに対しても著者は冷厳な事実を用意している。貧困層の出身であった兵士は愛国心に燃えていたどころか、徴兵逃れや脱走を試みようとあの手この手を使ったのだと。実際、脱走兵と徴兵忌避者は全兵員の五分の一に匹敵していた。

こうした脱走兵や徴兵忌避者は山野に逃げ込んで山賊となったが、その捜索・逮捕のために生まれたのが国家(帝国)憲兵隊である。この帝国憲兵隊は脱走兵・徴兵忌避者がいなくなっても、農村地方の治安維持機構として生き残り、現在に至っている。国家憲兵隊こそは「ナポレオン支配が残した遺産の一つ」なのである。

ナポレオンの遺産としては他に民法典があるが、これも「部分的に先んじてあった革命期の土地諸法と司法改革を」、秩序、画一化、権威主義といったナポレオン帝国の支配原理に見合うよう「再定式化した」ものに過ぎなかった。

いずれにしろ、変化は一朝一夕に起こるのではなく、前時代の財産を基盤にしているという非ロマンチックな「継続」史観の典型がここにある。この意味で、本書はバルザックの『人間喜劇』の細部を読み解く最良のハンドブックの一つとなるだろうし、スタンダールを脱構築化するための武器となるにちがいない。(杉本淑彦、中山俊・訳)
ナポレオン帝国  / ジェフリー・エリス
ナポレオン帝国
  • 著者:ジェフリー・エリス
  • 翻訳:杉本 淑彦,中山 俊
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:単行本(268ページ)
  • 発売日:2008-12-18
  • ISBN-10:4000272012
  • ISBN-13:978-4000272018
内容紹介:
ナポレオンはフランス革命の継承者だったのか、それとも破壊者だったのか。大帝国の名のもとに行われた彼の支配は、ヨーロッパのそれぞれの地域に何を遺産として残したのか。ナポレオンが目指し、成し遂げ、断念したものは、彼が築き上げた帝国の実態にこそ表れている。近年目覚ましい展開を見せる新たなナポレオン研究の成果を見渡し、行政組織、法制度、軍事、経済、教会と国家、帝国エリートの編成、従属国支配など、主要なテーマに沿って、ナポレオン体制の現実を総合的に解説した得がたい一冊。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2009年10月4日

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