書評

『かの悪名高き――十九世紀パリ怪人伝』(小学館)

  • 2017/08/20
かの悪名高き十九世紀パリ怪人伝  / 鹿島 茂
かの悪名高き十九世紀パリ怪人伝
  • 著者:鹿島 茂
  • 出版社:小学館
  • 装丁:文庫(248ページ)
  • ISBN-10:4094047719
  • ISBN-13:978-4094047714
内容紹介:
十九世紀、パリ。華の都を舞台に、その卓抜なアイデアと強烈な個性で時代を揺るがし、「黒い獣」と呼ばれた男たちがいた-。経営危機に瀕したオペラ座を機知と豪腕で救ったタコ博士ヴェロン、セ… もっと読む
十九世紀、パリ。華の都を舞台に、その卓抜なアイデアと強烈な個性で時代を揺るがし、「黒い獣」と呼ばれた男たちがいた-。経営危機に瀕したオペラ座を機知と豪腕で救ったタコ博士ヴェロン、センセーショナルな大衆日刊紙の元祖ミヨー、フィガロを成功に導いたやり手の肥満プリンス・ヴィルメサンなど、十九世紀パリのジャーナリズムにおいて、その広野を駆け抜け、大成功を収めた男たちの「悪名高き」人生!無一文、無一物の若者が、無から有を生み、斯界の帝王に成り上がるまでの秘策とは。

怪人たちのいるところ

鹿島茂はこれまで一貫して、「この人からはじまる」と言い切れるような偉業をなしえた人物、卑俗低俗を超越する圧倒的な活力と創見によって有無を言わさず社会の一分野を変革した人物に強烈な関心を示し、彼らの生涯を生き生きと語りつづけてきた。貴重な一次資料を駆使しながら退屈な二次資料を再生産する愚はけっして犯さず、勘所を押さえた軽快な語り口で読者を魅了するその文体は、超弩級の出力を誇る大型アンプで、レスポンスのいい中型スピーカーを小音量で鳴らすのに等しい余裕を感じさせ、どんなに長時間聴いていてもいっこうに疲れを感じない音楽を連想させる。この安心感の秘密は、音源が個々の人間に据えられている点にある。文学研究が人間への興味を失ってすでに久しいが、本音と建前、表と裏を恥ずかしげもなく衆目にさらした「成り上がり者」たちへの愛に満ちた眼差しこそ、氏の一連の著作を貫く力なのである。十九世紀の文化・産業・政治史の読解が、現在の日本社会にそのまま適用できそうな鮮度を保っているのは、図式を決めてからモデルを捜すのではなく、特定の人物を光源にしてはじめて浮かびあがる全体像を描いているからなのだ。

十九世紀フランスのジャーナリズムに革命を起こした五人の傑物を扱う『かの悪名高き――十九世紀パリ怪人伝』も、そんな魅力に溢れた一冊である。「オペラ座の蛸博士」ルイ=デジレ・ヴェロン(1798ー1867)、「情報の王様」シャルル=ルイ・アヴァス(1783ー1858)、「風刺共和国のオルガナイザー」シャルル・フィリポン(1800ー62)、「大衆紙の帝王」モイーズ・ミヨー(1813ー71)、「《フィガロ》の肥満プリンス」ジャン=イポリット・ド・ヴィルメサン(1812ー79)。彼らの成功には、ひとつの大きな共通点があった。すなわち「資本の一挙投入による需要の一気拡大」と徹底的な「採算」への拘泥。怪人の怪人たる所以(ゆえん)は、ほとんど動物的な勘で行動を起こすべきタイミングを嗅ぎつけ、多少の不運なら幸運に転換してしまう押しの強さにあった。採算の合う合わないを見極めることに成功した回数が、失敗の回数を最終的に上まわる、そういう生きざまを波瀾万丈と呼ぶのである。

たとえばパリの文房具店に生まれたヴェロンは、家業を継がずに医学博士となり、棄児院などで研修を積んだあと若き開業医となるのだが、有力な女性患者の治療に失敗、客を封じられてたちまち挫折し、おまけに梅毒にやられて首に醜い癰(よう)をこしらえるという不運つづきだった。転機は、旧知の薬種商が発明した咳止めドロップに目をつけたとき訪れる。両親が残した財産でその製造特許を買い取り、大量生産の態勢を整えるや、当時まだ誰も考えつかなかった「新聞広告」の潜在力に訴えて需要拡大の博打を打ち、大成功を収めるのである。

富豪の仲間入りをした彼は、真の成り上がりとなるべく次の標的を夢だった文芸雑誌の創刊に定め、資本をそそぎ込んだ破格の原稿料と広告による大々的な宣伝、そして緻密なマーケティング調査を武器に、名のある執筆陣をずらりとならべて作家予備群をも読者に組み入れた。かくて採算などあうはずもなかった文芸の世界に、「ルヴュ・ド・パリ」という利益の出る画期的な商品を誕生させたのである。「咳止めドロップ」と「文芸雑誌」の、「採算」というフィルターを透かした同列化。菱形をした医薬品販売の収益が数々の名作を生み、さらにその薬効成分は、のちに乞われて引き受けたオペラ座経営にも浸透していった。

芸術的才能とは無縁な経営感覚が、文化を、芸術を動かしていく。アジャンス・アヴァス・グループの創始者アヴァスは、七月革命後、新聞の発行数が飛躍的にのび、情報が金になることに目を付けて、誰よりもはやくそれを入手するべく外国の新聞が集まる馬車の発着所付近に事務所を構えた。そして主要記事をただちに翻訳し、複数の新聞に流したばかりでなく、「契約料の高い順」に配給する時間差の付加価値をつけて多大な利益をあげ、さらにこの情報配給システムを広告に応用して、現在の広告代理店の基礎をつくりあげた。材料のたらいまわしという手法の旨味なら、風刺新聞の創始者フィリポンも疾くから気づいていた。グランヴィル、ドーミエという途方もない才能を発掘、育成したこの名伯楽は卓越した商才の持ち主でもあって、新聞に掲載した風俗リトグラフィーをポスター仕様の大判に仕立てて販売するなど、おなじ素材で幾度も収益をあげる情報産業の極意を芸術に還元してみせたのである。

大量の広告を受注して購読料を安価に抑え、新聞に触れたこともなかった階層の人々を読者に取り込んだ「プチ・ジュルナル」の創刊者ミヨーの慧眼は、くだけた口調の記事の掲載や、整備されたばかりの鉄道を活用したフランス全土の村々に新聞を届ける流通経路にまで及んでいたし、付録だけが売りもので本文は粗悪な紙に印刷されていたモード新聞を、上質紙をつかったヴィジュアル雑誌に刷新したヴィルメサンは、予約購読料を「一年後」支払いとする逆転の発想、デパートの売り棚にヒントを得た「ターゲットを決めない全方位のジャーナリズム」、そして適度なスキャンダリズムを掲げて文芸新聞「フィガロ」を成功に導いた。

五人の怪人の生涯を通して、十九世紀の熱いうねりがまざまざと蘇る。鹿島茂という二十世紀末の怪人の犀利なフィールド・ワークを支えているのは、これらいかがわしい男たちの情熱に対する共感だ。本書は安吾の「風博士」の文体模写で幕を開けているが、著者には是非颯爽たる文体の、子ども向け「十九世紀怪人伝記シリーズ」を刊行して頂きたい。幼少の砌(みぎり)から「直球型成り上がり願望」を育んでおけば、二十一世紀の日本文学は、あらたな怪人の庇護のもとに隆盛を見ることになるだろう。

【この書評が収録されている書籍】
本の音 / 堀江 敏幸
本の音
  • 著者:堀江 敏幸
  • 出版社:中央公論新社
  • 装丁:文庫(269ページ)
  • 発売日:2011-10-22
  • ISBN-10:4122055539
  • ISBN-13:978-4122055537
内容紹介:
愛と孤独について、言葉について、存在の意味について-本の音に耳を澄まし、本の中から世界を望む。小説、エッセイ、評論など、積みあげられた書物の山から見いだされた84冊。本への静かな愛にみちた書評集。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

かの悪名高き十九世紀パリ怪人伝  / 鹿島 茂
かの悪名高き十九世紀パリ怪人伝
  • 著者:鹿島 茂
  • 出版社:小学館
  • 装丁:文庫(248ページ)
  • ISBN-10:4094047719
  • ISBN-13:978-4094047714
内容紹介:
十九世紀、パリ。華の都を舞台に、その卓抜なアイデアと強烈な個性で時代を揺るがし、「黒い獣」と呼ばれた男たちがいた-。経営危機に瀕したオペラ座を機知と豪腕で救ったタコ博士ヴェロン、セ… もっと読む
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初出メディア

文學界

文學界 1997年10月

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