前書き
『大読書日記』(青土社)
富裕の民主化が進み、大正教養主義を担ったのよりも少し下の階層、さきほど私が「健全な常識」と呼んだ通念が支配的だった下層中産階級が中等教育や高等教育にアクセスするようになると、学生たちにも、読書で得た教養を武器にドーダをするようなまだるっこい競争を続けていく余裕がなくなってきたのだ。同じドーダでももっと単純で分かりやすいドーダでなければ面倒くさいと感じる人たちが増えてくるのである。
たとえばファッション、たとえばスポーツやレジャー、たとえば時計や自動車といったモノ。要するに、高等教育にアクセスする階層のドーダ・アイテムが変わったのだ。
そしてこの現象は戦前の昭和十年代と戦後の昭和四十年代に二度起こっている。
このうち、後者は私自身が体験したからよくわかる。明らかにドーダ・アイテムの交代、というよりも同時併存が観察されたのだ。片方に旧制高校生的な教養ドーダ、読書ドーダをする学生がいるかと思えば、もう片方にはそうした旧来的ドーダにはまったく反応を示さず、ファッション、車、スポーツのことしか頭にない学生もいた。またその両方という学生さえ存在していた。
私はというと、この第三のタイプの学生で学生運動にシンパシーを感じたり、万巻の書を読んでやろうというファウスト的情熱に駆られる一方、ファッションや車にも心ひかれていたのだ。
おそらくこうした中間的ポジションは酒屋の息子という出身階層と昭和四十年代に思春期を送ったという時代環境がたぶんに関係している。家庭のメンタリティーとしては、高学歴を得るのはいいが、読書などという役に立たないことはすべきではないという「健全なる常識」の中で育った関係で、読書や教養といったものに対する信仰が薄い。
しかし、反面、神奈川県のエリート高校(当時)から東大に進学したことで教養ドーダ、読書ドーダの洗礼を受けている。ひとことで言えば、階層的にも時代的にも過渡期的、中間的存在であったわけだが、このポジションのおかげで、読書というものの本質に敏感であることができたのだ。
すなわち、片方では読書は現実生活でなんの役にも立たないと考える人たちの主張を率直に認めることができる。なぜなら、読書などしなくてもたくましく生きていける人々をたくさん知っているからだ。彼らは彼らなりに充実した人生を全うしている。私ももし出身階層を離脱することがなかったら、彼らと同じように読書などせずに無事に一生を終えていたはずである。だから読書しない人々に向かって読書の効能を説いても無駄なことは自明なのだ。
だが、その一方で、青春時代に読書をする習慣を身につけたことが自分の人生にとって計り知れない効能をもたらしたとはっきりと認めることができる。読書なしの人生と読書ありの人生のどちらを選ぶかと問われたら、躊躇することなく後者を選ぶと答えるだろう。
つまり、ここまでの人生を振り返って総括すると、読書は少なくとも私には役に立ったということができるのだが、問題は実はこの結論の出し方自体にあるといえる。
なんのことかといえば、読書の効能とは「今になって振り返ってみれば」というかたちで「事後的」にしか確認できないことにある。言い換えると、事後的であるからこれから人生を始めようとする若者に向かって「読書するとこれこれの得があるから読書したほうがいいよ」と事前的にはいえないということだ。
ところで、事後的には効能は明らかだが、事前的には効能を明示できないものというのは、読書に限らず、たくさんある。
教育などというものはその典型である。就職や結婚に有利といった実利的目的を除いて教育はなんの役に立つのかと考えると、これもまた「受けないよりも受けた方がよかった」と事後的にしか効能を答えられない。恋愛もまたしかり。しないよりもしたほうがいいのだ。
では、事後的には効能は明らかだが事前的には効能を明示できないものを若い人たちにどのように勧めたらいいのか?
読書しかないというのが私の結論である。
そうなのである。読書こそは「大切なものはみな事後的である」という矛盾を克服できる唯一の方法なのである。
なぜなら、本というのは多かれ少なかれ、この事後性を自覚した人によって書かれているからだ。そのため、読書をすることによって、本来は事後的にしか知り得ないことを事前的に知ることができる。ただし、読書のこの最大の効能は事後的にしか知ることができないという矛盾にさらされているのである。
というわけで、私の最終的な結論は次のようなことになる。
読書の効能が事後的である以上、それを事前的に説明することはやめて、「理由は聞かずにとにかく読書しろ」と強制的・制度的に読書に導くこと、これしかないのである。
(岩波文庫編集部編『読書のとびら』(岩波文庫) 岩波書店 二〇一一年)
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