前書き
『大読書日記』(青土社)
まえがきにかえて 理由は聞くな、本を読め
すこし前のことだが、地方都市の図書館から「なぜ本を読まなければならないのか?」という演題で講演を依頼されたことがある。「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いかけが流行していた頃のことだと思う。私はこの演題を与えられたとき、ふーむと考えこんだ。なぜなら、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いと異なって、これに功利的な理由の答えを与えることはむずかしいからである。
たとえば、「なぜ人を殺してはいけないのか?」には「もし自分が人を殺してもよいことになったら、人が自分を殺してもよいことになってしまう。殺されたくないなら、殺してはいけないのだ」と功利的な(その方が得だという)理由をあげてこれに答えることができる。
ところが、「なぜ本を読まなければならないのか?」に対しては「本を読んだ方が得だから」という理由を用意するのは、少なくとも表面的には困難である。
だってそうでしょう。もし、本を読んだ方が得ならば、社会の全員が一生懸命になって本を読むはずなのに、現実はその逆の方向にむかっている。ますます本が読まれなくなっているということは、本など読まない方が得だと判断する人がますます増えていることを意味している。現実はかならず功利的な動機に従うのである。
だから、読書人口を増やそうとして、読書の功利的な理由をあげる議論をしてもそれはすべて無駄である。
というわけで、わたしたちは「本を読んだとしてもなんの役にも立たない」と正直に告白し、その地点から議論を改めて組み立てていかなければならない。そう、問いは正しくは「本など読んでもなんの役にも立たないのがわかっているのに、なぜ、わたしたちは本など読むのだろう?」というかたちで立てられなければならないのだ。
実際、いまから百年ほど前までは、「本などなんの役にも立たない」というのは社会の常識、それも健全な常識であった。
私の家は代々、横浜の外れで酒屋を営む商人であったが、「商人に学問はいらない」が家訓であり、大正三(一九一四)年生まれの父も中学校に入れてもらえなかった。本を読んでいたりすると祖父に殴られたという。下層中産階級では本はおろか学問でさえ厄介物扱いされていたのだ。
子供はすべからく親の職業を継ぐべしという社会通念がまかりとおり、あらかじめ定められた階級を離脱することなど考えられなかった時代には、この「健全な常識」が社会を支配していたのだ。
ではいったい、いつごろからこの「健全な常識」が崩れ、「本を読むことはよいことだ」という「新しい常識」が社会に誕生したのだろうか?
学歴を身につけたことで階級離脱の可能性を得た都市中産階級の成立以後だろう。
この新しい階層の特徴は均質性にあった。都市と地方の差はあるものの、親の年収、親の学歴、家庭環境などみなよく似ていた。この均質性をもった集団が旧制中学、旧制高校、旧制大学と学歴の駒を進めてくると、ただ勉強ができるとか成績がよいなどということだけでは集団の中で差異を示すことができなくなる。集団の中で一目おかれるようになる(私の用語でいえば「ドーダ。まいったか、おれはすごいだろう」というドーダ競争に勝つ)には、勉強や成績以外のところで差異を示すことができなければならない。
ここにおいて、いわゆる、デカンショ(デカルト、カント、ショーペンハウエル)の大正教養主義が成立したのである。
つまり、学歴の獲得や就職といった直接的な功利目的には役に立たないが、しかし、均質集団の中でのドーダ競争には有効な武器となりうるものとして読書は登場したのである。デカンショの片言半句を自在に引用できることはドーダには役だったのである。
この点を忘れてはならない。社会学的に読書はかならずしも「純なるもの」ではないのである。
だが、動機は不純でも結果が不純ではなくなるといったことはいくらでも起こる。旧制高校のデカンショ・ドーダはその当初の目的がなくなり、直接的な功利性が失われたあとも読書を経験した元旧制高校生になんらかの影響を及ぼしたのである。そう。それはなんらかのとしか言いようのない漠然とした微弱な影響であったかもしれない。だが、影響であったことはたしかなのである。なぜなら、社会に出たあと、彼らは異口同音に旧制高校時代の読書が今日の自分を築いてくれたと感謝することはあっても、無駄なことをしたと後悔することは少なかったからだ。この事実から推測できるのは、読書には速効性の効能はないが、遅効性のサプリメント的な効能はありそうだということだ。そして、実際、この考えは、やがて広く受け入れられていった。大正教養主義の勝利である。大正教養主義の洗礼を受けた人々は自分たちの子供にも絵本や児童文学を買い与え、文学全集が出れば予約購読を申し込んだ。
だが、その覇権は長くは続かなかった。
(次ページに続く)
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