書評
『華族家の女性たち』(小学館)
「女系歴史学」から見る上層集団
近年、遺伝子学では、男系を支えるY染色体ではなく、女系のみによって伝えられるミトコンドリアDNAに注目し、そこから人類のたどった歴史を眺め返すという動きが出てきているが、この流れから行くと、完全に「男系」対象の学問である旧来的な歴史学に対して、「女系」に注目した新しい歴史学というものが可能なような気がする。とくに、系譜学が確立しているヨーロッパでは「女系の歴史学」も成り立ちうるのではないか。一方、「女の腹は借り腹」という女性蔑視(べっし)の通念がまかり通っていた日本ではこの試みは容易ではないが、例外もある。明治十七年の華族令によって、公・侯・伯・子・男の爵位を授けられた公家、諸公、偉勲・勲功者などの華族集団である。
というのも、華族においては「閨閥(けいばつ)」が形成されていたこともあり、女系で系譜をたどり直すことができるからだ。つまり、少なくとも華族(および皇族)に関しては、ミトコンドリアDNAに注目した「女系の歴史学」も十分成りたちうるのである。
『梨本宮伊都子妃の日記』執筆のため梨本家に赴いた著者は、当主から「旧華族の人たちはみな、縁戚関係にありますよ。先生がここにおられることも、皆さんご存じですよ」と言われて、華族閨閥の広がりに驚き、華族の歴史を女系から再検討することを思いつく。
記述は「近代美人として」「男系の支え」「華族女子の職業」「逸脱する子女たち」と多岐にわたっているが、私のような下世話な人間から見て興味深いのは、戦前の華族女性の職業の一つとして、幕府における大奥のような「奥」という職場があったことである。
「奥」で働く女官には由緒ある家柄の子女が選ばれたが、「公・侯爵に相当する『摂家・清華・大臣家』出身の子女は、女官にはならなかった。彼女たちは、女官ではなく『后妃』(皇后)になったからである」。女官になるのは、羽林(うりん)家(大納言・中納言・参議までの位。近代では伯爵)以下の家柄の子女である。この家柄から明治天皇の側室となる柳原愛子、千種任子、園祥子などの女官が出たが、「彼女たちはいく重にも絡みあった姻族関係で結ばれていた」。
では、明治天皇はこうした女官の中から自由に夜伽(よとぎ)の相手を選べたかといえば、そうではない。
明治天皇の夜伽の相手は、典侍の高倉寿子が決めていた。寿子は、新樹の典侍と称し、つねに、天皇が皇后の了承を得ずに、ほかの女官に手をつけぬように監視していた。
この高倉寿子とは、公家の高倉家出身で、皇后美子(はるこ)の出た一条家の家庭教師的存在であり、美子が皇后になる際、輔導役として「奥」に入ったのである。
天皇家に側室制度があったように華族家にも妾が存在した。
『萬朝報』の黒岩涙香は妾を持つ華族を攻撃した「蓄妾の実例」で有名だが、そこに九条道孝公爵の妾として記されている「神田区錦町一丁目九番地光彦姉野間いく(五十)」こそ、「連載二年後の明治三三年に、皇太子嘉仁(のちの大正天皇)と結婚して皇太孫裕仁(のちの昭和天皇)を産む九条節子(さだこ)(のちの貞明皇后)の実母なのである」。
つまり、大正天皇御夫妻はともに正妻の子ではなかったのである。
彼らが一定の年齢になってそれぞれにこの事実を知り、彼らの心は深く傷ついたという。そしてこのことが、天皇家の一夫一婦制の道を開く、ひとつの要因となったともいわれる。
ことほどさように、「女系歴史学」というのはまことに興味が尽きないのである。
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