書評
『忘れられた巨人』(早川書房)
過去への郷愁と伝説のリアリティー
カズオ・イシグロには意表を突かれる。過去の輝かしい日々を追想し、時代の流れに抗(あらが)おうとする戦後の英国執事を描いた『日の名残り』の後に発表されたのは、カフカ的な非現実世界を彷徨(ほうこう)する男が主人公の『充たされざる者』だった。そして、二十世紀初頭の上海を舞台に私立探偵が活躍する『わたしたちが孤児だったころ』の後に、自分とは何かと問い続けるクローンたちの「人生」を描いたSF風未来小説『わたしを離さないで』が続いた。この四作を見る限り、スタイルもテーマも時代も異なり、そのときどきにイシグロが果敢な挑戦をしてきたことが、そしてこの作家がとりわけ「記憶」に興味を抱いていることがわかる。
今年発表された『忘れられた巨人』で、やはりわたしは意表を突かれた。むしろ戸惑いすら覚えた。時代設定がこちらの想像を超えていたからである。ブリトン人とサクソン人の戦いが終わってようやく平安が訪れた七世紀ごろのイギリスを舞台に、アーサー王伝説の衣を借りて老夫婦の旅が描かれていく。人々はほんの数日前のことですら覚えていないような、忘却の霧の中に住んでいる。老夫婦には息子がいたが、村を出て以来会ったことはない。夫婦はその息子に会うために重い腰を上げ、いたわり合いながら旅を続ける。その旅でさまざまな人々に出会い、この国の謎が、人々の物忘れの理由が明らかになっていく。
老夫婦とは何者か、「忘れられた巨人」とはなんのメタファーか、船で渡るとはどういうことなのか。読後、その問いと向き合うためにも、本書はできるだけ先入観を持たずに読んだほうがいい作品である。凝縮した文章で語られる思い出せない過去への郷愁と、生き続ける伝説のリアリティーを味わっていただきたい。
【文庫版】
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