書評
『カルチュラル・スタディーズ入門―理論と英国での発展』(作品社)
カルチュラル・スタディーズはちょっとしたブームになっている(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1999年)。ここ二、三年来複数の雑誌で特集が組まれ、シンポジウムも何度か開催された。今年(一九九九年)に入ってからも論文集の刊行は続いており、研究書も続々と出版されている。だが、知的ファッションとしてイメージが先行しているわりには、中身は必ずしもひろく知られていない。概説書がまったくない現在、この研究分野をわかりやすく紹介した『カルチュラル・スタディーズ入門』は便利な道案内となる。
一九五〇年代後半イギリスに発祥し、リチャード・ホガート、レイモンド・ウィリアムズやスチュアート・ホールらに始まった一連の文化研究は従来アカデミズムの知識体系から排除された問題を取り上げることで、独自の領域を開拓した。一方、大衆文化を研究対象に据えたことは必然的にこの専門分野のカテゴリーを複雑なものにした。テレビ番組についてのテクスト分析、オーディエンス研究、オーラル・ヒストリーの収集、暴走族やヒッピーについての調査、ディアスポラの問題など、取り扱う対象も用いられた方法も広い範囲にわたる。
メディア研究において記号論的、構造主義的分析の手法が用いられたことは、新たな理論的枠組みの構築を可能にした。一九八〇年代後半から現れたオーディエンス研究はカルチュラル・スタディーズにおける革命的な変化で、そこで文学研究から出発した過去と正式に決別した。研究者は自らオーディエンスとともにテレビを視聴し、番組についての感想を書き取るだけでなく、制作現場に足を運び、番組編成者や役者らとも会話を交わす。そうした地道な調査を通して、文化産業が全体としていかに機能するかが明らかにされた。
カルチュラル・スタディーズは歴史学、社会学、民族学などの分野を横断し、そのはざまにこぼれ落ちる問題に着目し学際的な研究を行うことだけではない。制度としての文化がいかに作り上げられ、それを機能させる言説がどのように形成され、なにを意味しているかを分析するのがおもな目的である。それらの作業を通して、人文・社会科学の権威を徹底的に問い直し、再組織する必要性と可能性に迫る。
本書は複雑多様な内容を扱いながら、素人にもわかるように理路整然とまとめられている。著者が設置したファインダーから眺めると、全体像は一目瞭然となる。解説は明晰で、実例もふんだんに挙げられている。入門書の性格上、著者の論点は必ずしも目立たない。ただ、知の流行として見られることに対する拒否の姿勢ははっきりと感じ取ることができる。
同時代文化に対する批判的関与はカルチュラル・スタディーズの思想的起源を示している。そのもそもヨーロッパの批判的マルクス主義はこの新しい専門領域の政治的背景であった、文化研究としてかつて社会主義思想運動とどのようなかかわりを持っていたかを教えてくれるのは『イギリスのニューレフト』。とはいっても、本書はカルチュラル・スタディーズを紹介したり、論じたりしたものではしない。著者の関心はあくまでも政治運動にある。だが、マルクス主義思想との関係を追跡した結果、カルチュラル・スタディーズのもう一面、少なくともこれまであまり触れられていない側面が明らかになった。
「新左翼」というと、何やらヘルメットを連想するが、ヨーロッパ大陸の大学闘争世代に比べて、イギリスの「ニューレフト」は遙かに穏和で知的だという。そもそも「ニューレフト」の線引きは難しく、とりわけカルチュラル・スタディーズの創始者たちを「ニューレフト」と見るのは問題を含むかもしれない。ただ、イギリスで文化研究を始めた人たちが政治的戦略の角度から文化問題を論じたのは、やはりニューレフト的な発想と無関係ではない。組織的な関係はともかくとして、イギリスのニューレフトとのあいだの思想的共鳴ないし一致があったのは否めない。
上部構造は下部構造に決定されるという伝統的マルクス主義の主張に対し、彼らは経済至上主義を退け、文化を社会的、政治的闘争の中心過程として捉え直した。新聞、放送、テレビに注目したのはメディアが巨大な権力として認識されたからで、不良少年の集団行動など都市サブカルチャーを取り上げたのも、教育問題には権力関係が隠されていると考えているからだ。一見純粋にアカデミックな理論構築のように見えるが、その背後には幅広い資本主義批判の意図があった。現在のカルチュラル・スタディーズにはそのような政治的な意識は必ずしもあるわけではない。だが、この専門領域を本当の意味で理解するには、思想的源流を知るのも決してむだではない。
【この書評が収録されている書籍】
一九五〇年代後半イギリスに発祥し、リチャード・ホガート、レイモンド・ウィリアムズやスチュアート・ホールらに始まった一連の文化研究は従来アカデミズムの知識体系から排除された問題を取り上げることで、独自の領域を開拓した。一方、大衆文化を研究対象に据えたことは必然的にこの専門分野のカテゴリーを複雑なものにした。テレビ番組についてのテクスト分析、オーディエンス研究、オーラル・ヒストリーの収集、暴走族やヒッピーについての調査、ディアスポラの問題など、取り扱う対象も用いられた方法も広い範囲にわたる。
メディア研究において記号論的、構造主義的分析の手法が用いられたことは、新たな理論的枠組みの構築を可能にした。一九八〇年代後半から現れたオーディエンス研究はカルチュラル・スタディーズにおける革命的な変化で、そこで文学研究から出発した過去と正式に決別した。研究者は自らオーディエンスとともにテレビを視聴し、番組についての感想を書き取るだけでなく、制作現場に足を運び、番組編成者や役者らとも会話を交わす。そうした地道な調査を通して、文化産業が全体としていかに機能するかが明らかにされた。
カルチュラル・スタディーズは歴史学、社会学、民族学などの分野を横断し、そのはざまにこぼれ落ちる問題に着目し学際的な研究を行うことだけではない。制度としての文化がいかに作り上げられ、それを機能させる言説がどのように形成され、なにを意味しているかを分析するのがおもな目的である。それらの作業を通して、人文・社会科学の権威を徹底的に問い直し、再組織する必要性と可能性に迫る。
本書は複雑多様な内容を扱いながら、素人にもわかるように理路整然とまとめられている。著者が設置したファインダーから眺めると、全体像は一目瞭然となる。解説は明晰で、実例もふんだんに挙げられている。入門書の性格上、著者の論点は必ずしも目立たない。ただ、知の流行として見られることに対する拒否の姿勢ははっきりと感じ取ることができる。
同時代文化に対する批判的関与はカルチュラル・スタディーズの思想的起源を示している。そのもそもヨーロッパの批判的マルクス主義はこの新しい専門領域の政治的背景であった、文化研究としてかつて社会主義思想運動とどのようなかかわりを持っていたかを教えてくれるのは『イギリスのニューレフト』。とはいっても、本書はカルチュラル・スタディーズを紹介したり、論じたりしたものではしない。著者の関心はあくまでも政治運動にある。だが、マルクス主義思想との関係を追跡した結果、カルチュラル・スタディーズのもう一面、少なくともこれまであまり触れられていない側面が明らかになった。
「新左翼」というと、何やらヘルメットを連想するが、ヨーロッパ大陸の大学闘争世代に比べて、イギリスの「ニューレフト」は遙かに穏和で知的だという。そもそも「ニューレフト」の線引きは難しく、とりわけカルチュラル・スタディーズの創始者たちを「ニューレフト」と見るのは問題を含むかもしれない。ただ、イギリスで文化研究を始めた人たちが政治的戦略の角度から文化問題を論じたのは、やはりニューレフト的な発想と無関係ではない。組織的な関係はともかくとして、イギリスのニューレフトとのあいだの思想的共鳴ないし一致があったのは否めない。
上部構造は下部構造に決定されるという伝統的マルクス主義の主張に対し、彼らは経済至上主義を退け、文化を社会的、政治的闘争の中心過程として捉え直した。新聞、放送、テレビに注目したのはメディアが巨大な権力として認識されたからで、不良少年の集団行動など都市サブカルチャーを取り上げたのも、教育問題には権力関係が隠されていると考えているからだ。一見純粋にアカデミックな理論構築のように見えるが、その背後には幅広い資本主義批判の意図があった。現在のカルチュラル・スタディーズにはそのような政治的な意識は必ずしもあるわけではない。だが、この専門領域を本当の意味で理解するには、思想的源流を知るのも決してむだではない。
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