解説
『気晴らしの発見』(新潮社)
ストレスの発見のくだりで、私が特に興味をひかれたのは、「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた」と書いた梶井基次郎(一九〇一~三二年)と、ストレスの発見者ハンス・セリエ(一九〇七~八二年)が、地理的には遠くへだたっていたものの、同時代人だったと指摘していることだ。さらに著者は、梶井が「檸檬」を発表した一九二五(大正十四)年は、まさに医学生セリエがプラハ大学でストレスという概念の発見へと至る端緒をつかんでいたと指摘している。
おそらくストレスは、この時期に発見されるべくして発見されたのだろう。名付けられるべくして名付けられたのだろう。
もしかすると話はちょっとずれるかもしれないが、私は大宅壮一が昭和四年に書いた「モダン層とモダン相」という短い評論を思い出さずにはいられない。大宅壮一はノンフィクション賞にその名を残す超有名ジャーナリストだが、私は長年まったく興味がなかった。何だか(凄く粗雑な言い方になってしまうが)おやじマスコミぽくて、自分とは接点のない人と思い込んでいたのだった。
それが数年前、たまたま『大宅壮一・一巻選集無思想の思想』(文藝春秋)を読んで、ちょっと驚いた。昭和の初めの、いわゆるモボ・モガについて語った「モダン層とモダン相」がとても面白く、鋭く、今にも通用する分析だと思ったのだ。例えば、こういうくだり。
大正末から昭和の初めには、先端的なものだったモダニズムは、今や完全に大衆化した。誰もが極度に発達した「享楽経済」の中にいる。
私も長年映画を見て来たが、九〇年代以降のCG多用映画にはつくづく閉口させられる。末梢神経の刺激だけで成り立っている映像の連続なのだ。映画の世界に限らず、今は視覚、聴覚、味覚、触覚などの末梢神経を強く刺激するものが「迫力たっぷり」とか「感動的」と讃美され、そういう刺激なしには生きられない人たち――ジョルト・ジャンキーと呼ばれる人たちまで、大衆の中にぶあつい層を成して存在するようになっている。
高度に大衆化したモダニズム社会というのは、感覚的刺激なしには生きられず、けれど、その刺激がおのずからストレスを生み出すという自縄自縛的な社会なのだ。
世の中のジョルト・ジャンキー度が高まれば高まるほど、一見逆向きのような「癒やし」ブームの根も太く長くなって行く。そうして「癒やし」も「スローライフ」もたちまちにして消費社会の中に取り込まれ、商品化されて行くのだ。
やっぱり、「癒やし」でも「スローライフ」でもなく、「気晴らし」という言葉を著者が選んだのは正しい。私はここに……ちょっとヘンな言い方だが……著者の、「一般論」に対する嫌悪を感じる。嫌悪という言葉がきつかったら、異和感と言いかえてもいい。世の中でもてはやされている言葉にすんなりと乗れない心。できあいの思想においそれと結びつけられない心。「一般論」から居心地悪くはみ出してしまう心。
私は思う。世の中には二種類の人間がいるのだ。「一般論」で生きられる人間と、生きられない人間との二種類が。
「一般論」で生きられない人間は、自分で自分を救う言葉をみつけなければならないという苦しみがあるが、そのいっぽうで、御褒美のように、その人ならではの独創的な喜びを味わうこともできる。
そのことを痛感するのは、例えば、第3章の「九鬼周造のエッセイ」のくだりだ。小唄のレコードを聴きながら、空漠とした思いに襲われ、無言で涙ぐむ三人。その沈黙の深さ。涙の甘さ。著者は言う。「気を晴らす強力なメランコリーというものがあるものなのだ」。
説明は野暮だろう。私は読みながら、今やこの世にはいない三人の、美しい「生」の一瞬を味わった。
著者はそんな感受性の触手をいっぱいに伸ばし、たくさんの眠れない夜の中から、「気晴らし」という、自前の言葉をみつけ出したのだ。
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おそらくストレスは、この時期に発見されるべくして発見されたのだろう。名付けられるべくして名付けられたのだろう。
もしかすると話はちょっとずれるかもしれないが、私は大宅壮一が昭和四年に書いた「モダン層とモダン相」という短い評論を思い出さずにはいられない。大宅壮一はノンフィクション賞にその名を残す超有名ジャーナリストだが、私は長年まったく興味がなかった。何だか(凄く粗雑な言い方になってしまうが)おやじマスコミぽくて、自分とは接点のない人と思い込んでいたのだった。
それが数年前、たまたま『大宅壮一・一巻選集無思想の思想』(文藝春秋)を読んで、ちょっと驚いた。昭和の初めの、いわゆるモボ・モガについて語った「モダン層とモダン相」がとても面白く、鋭く、今にも通用する分析だと思ったのだ。例えば、こういうくだり。
「モダン」』とは時代の先端を意味する。しかもその先端たるや、本質的生産的先端ではなくて、末梢的消費的先端である。鋭く、細く、薄く、脆く、弱々しい先端である。研ぎすまされた時代の神経である。
モダン・ライフには「道徳がない。それは「道徳」の階級性を十分承知しているからである。モダン・ライフには、刺激はあるが「感激」はない。「感激」から甘さを除くとただ刺激だけが残る。彼らは禁酒国の無産者が、酒が得られなくてアルコールを口にするように、ただ刺激のみを追求する。理想も道徳も感激もない世界――これは感覚の世界である。
モダニズムには「昨日」もなければ「明日」もない。あるものはただ人工的刺激によって強く感覚に印象される刹那があるばかりである。
モダニズムは最も発達した享楽哲学である。享楽経済である。
大正末から昭和の初めには、先端的なものだったモダニズムは、今や完全に大衆化した。誰もが極度に発達した「享楽経済」の中にいる。
私も長年映画を見て来たが、九〇年代以降のCG多用映画にはつくづく閉口させられる。末梢神経の刺激だけで成り立っている映像の連続なのだ。映画の世界に限らず、今は視覚、聴覚、味覚、触覚などの末梢神経を強く刺激するものが「迫力たっぷり」とか「感動的」と讃美され、そういう刺激なしには生きられない人たち――ジョルト・ジャンキーと呼ばれる人たちまで、大衆の中にぶあつい層を成して存在するようになっている。
高度に大衆化したモダニズム社会というのは、感覚的刺激なしには生きられず、けれど、その刺激がおのずからストレスを生み出すという自縄自縛的な社会なのだ。
世の中のジョルト・ジャンキー度が高まれば高まるほど、一見逆向きのような「癒やし」ブームの根も太く長くなって行く。そうして「癒やし」も「スローライフ」もたちまちにして消費社会の中に取り込まれ、商品化されて行くのだ。
やっぱり、「癒やし」でも「スローライフ」でもなく、「気晴らし」という言葉を著者が選んだのは正しい。私はここに……ちょっとヘンな言い方だが……著者の、「一般論」に対する嫌悪を感じる。嫌悪という言葉がきつかったら、異和感と言いかえてもいい。世の中でもてはやされている言葉にすんなりと乗れない心。できあいの思想においそれと結びつけられない心。「一般論」から居心地悪くはみ出してしまう心。
私は思う。世の中には二種類の人間がいるのだ。「一般論」で生きられる人間と、生きられない人間との二種類が。
「一般論」で生きられない人間は、自分で自分を救う言葉をみつけなければならないという苦しみがあるが、そのいっぽうで、御褒美のように、その人ならではの独創的な喜びを味わうこともできる。
そのことを痛感するのは、例えば、第3章の「九鬼周造のエッセイ」のくだりだ。小唄のレコードを聴きながら、空漠とした思いに襲われ、無言で涙ぐむ三人。その沈黙の深さ。涙の甘さ。著者は言う。「気を晴らす強力なメランコリーというものがあるものなのだ」。
説明は野暮だろう。私は読みながら、今やこの世にはいない三人の、美しい「生」の一瞬を味わった。
著者はそんな感受性の触手をいっぱいに伸ばし、たくさんの眠れない夜の中から、「気晴らし」という、自前の言葉をみつけ出したのだ。
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