月夜は欲望を目覚めさせる
「焦がれる」という言葉がある。焼けるような、ひりつくような、熱く惹(ひ)かれる気持ち。ミルハウザーの最新作『Voices in the Night』(『夜の声たち』未邦訳)を評して、あるアメリカの作家はこんなふうに書いている。
この作品集の土台となっているのは、人間のもつ暗い憧憬(しょうけい)だ。完全なるものを、高揚を、捉えどころのない充足を希求する心。こうした憧憬は“可燃性”で、とかく巷(ちまた)に広がりやすい不安というものを火口(ほくち)にして、町とそこに住む人々の心を焼き尽くそうとする。
ほぼ満月の月の照らす夏の一夜、アメリカ東海岸の南コネチカットを舞台にしたミルハウザーの美しい寓話集『魔法の夜』にも、それはまさしく当てはまることだ。短い断章を何十と重ねていくこの作品には、実際、「夜の声たちのコーラス」という章が、ときおりギリシャ劇のコロスの語りのように間に挿入される。
今夜は啓示の夜。人形たちが目覚める夜。屋根裏で夢見る者の夜。森の笛吹きの夜。
ここはたったこれだけのごく短い断章だが、この章が全編の基調のひとつになっているようだ。月夜は欲望を目覚めさせる。
十四歳の少女ローラは森に出かけ、「月の光に焼き尽くされてしまいたい」と思い、「燃えさかる月にわが身を献(ささ)げ」て、独り解き放たれることを夢に見る。ジャネットは窓辺で、胸を引き裂く愛(いと)しい人を待つ。
女子高生ばかり五、六人で結成された仮面窃盗団は月下に、キッチンの食べ物や、冷蔵庫のマグネットみたいな「小物」ばかり盗んでいく。
母親と暮らす売れない三十九歳の作家ハヴァストローは、この少女窃盗団が自分のうちに押し入ってくれないかと願う。
六十一歳のミセス・カスコは息子と同い年のハヴァストローが夜中に訪ねてくるのを待っている。訪ねてくる相手も家族もいない老女は、靴下を片方だけはいたり、「月が青い庭に咲く白い花になる夜は」、庭に出てヒャクニチソウの香りを深く吸い込んだりする。
月の光は、メインストリートにある百貨店のマネキンの中に欲望を呼び起こす。子どもたちをパイドパイパーのように、夏の夜へ、そして森へと誘いだす。屋根裏部屋の人形たちを覚醒させ、躍らせる。
匿名願望と気づいてほしいという欲求のせめぎあい。『夏の夜の夢』の翻る翼の影を感じ、コナン・ドイルの詩「夜の声たち」や、T・S・エリオットの「ラプソディー・オン・ア・ウィンディ・ナイト」(“メモリー”の原詩)のこだまを聞く思いがする。
そうして、夏の夜の闇に包まれて、夢はつづく。夜明けの女神が「気だるげに長椅子から立ち上がり」馬車に乗り込むまで。
ミルハウザーは短編を書く「隠れた動機」について、こんなことも言っている。
偽りの慎ましさの裏にある、世界をまるごと表現したいなどという無茶な野心。
小さな町の、ひと夜に、世界が顕現する。世界とは、漠として形のない人の欲望そのものなのだろう。夜の声たちのコーラスが歌う。「栄えあれ、女神よ、夜さまよう者よ、太陽を袖にする者よ。栄えあれ、まばゆいサンダルを履く者よ――見守り夢見る者よ、夜の目よ、流れ注ぐ者よ。昼の悲しみを和らげ去るあなたよ、寄る辺ない心を助く友なるあなたよ――触って、いま私に触って、まぶしさで私を焦がして、白い矢で私を刺して、あなたのように清く澄むまで、狩りの女神にして癒す者よ、すべてを明かす者、慰撫(いぶ)し破壊する者よ」(柴田元幸訳)