書評
『カフカと映画』(白水社)
最先端メディアを吸収した作家
『カフカと映画』、一見奇妙なタイトルに見えるかもしれない。しかし、1883年生まれのカフカは、映画が発明されたとき感受性豊かな少年であり、保険協会の職員だった20代の日記や手紙には、鑑賞した映画について多くの記述が残されている。ツィシュラーの『カフカ、映画に行く』という本は、カフカの映画ファンぶりを追跡、実証したものだ。本書はツィシュラーの研究のさらに先に踏みこみ、映画という当時最先端のメディアをカフカがどのように自分の文学世界に吸収したかを論じている。
ところで、カフカはプルーストやジョイスと並ぶ20世紀最高の作家と見なされている。だが、カフカがプルーストやジョイスと根本的に異なっているのは、その人間観である。プルーストは記憶を人間の最も重要な根拠とし、ジョイスは人間の意識の流れを描く革命的手法を開発した。
だが、彼らと違って、カフカは自己という人間の内面を信じていない。本書に引用されるとおり、カフカは、「自己忘却」こそが「作家であることの第一の前提」であると考えていた。
そんな人間観をもつカフカにとって、内面を表現することができず、人間をもっぱら外側から描く映画というメディアはうってつけの芸術形式だったはずだ。カフカが様々なかたちで映画的手法やテーマを小説にとり入れたことは当然のなりゆきといえよう。
映画とは何よりも運動とスピードの芸術である。リュミエール兄弟が発明した映画の初期短編のなかで、「列車の到着」が一番センセーションを呼んだことはよく知られている。カフカの小説にも列車や車など交通機関を描いたものが多いのである。
また、批評家ベンヤミンは、「カフカ解釈の真の鍵を握っているのはチャップリンだ」と述べたが、カフカの長編『失踪者』のなかには、ドタバタ喜劇のように面白い追っかけの場面が登場する。
カフカの『城』と映画「吸血鬼ノスフェラトゥ」のつながりなど、本書を読んでいると、本当にカフカの小説が映画と深い関係をもつように思えてくるのである。
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