書評
『性の進化史: いまヒトの染色体で何が起きているのか』(新潮社)
生き物の世界の神秘に接する機会
まだ現役で教壇に立っていた頃、私は学生によくこんな話をした。女性は「弱き」性だというが、生物学的には全く間違っている。現象面でも、胚や胎児の段階から高齢まで、生き残る確率は女性の方が圧倒的に高いが、理論的にも話は簡単だ。性を決める染色体は、女性はXX、男性はXY、X染色体は、ほかの染色体と比べても大きく、遺伝情報をかなり持っているが、Y染色体は極端に短く、ほとんど遺伝情報を持っていない。としたら、比較の結果は歴然たるものではないか。女性が「人間」なら、男性は「欠陥人間」なのだ。本書は、この雑ぱくな言い方を、現代の知見をフルに生かして、正確な物語にしてくれる。そればかりではない。すでに極端に小さなY染色体、それがなければ、ヒトは男性になれないその染色体が、実は歴史的に劣化の一途を辿(たど)ってきている、というのだ。その上、現代の一夫一婦制、顕微授精などによる生殖補助医療技術、あるいは生活習慣なども絡んでか、精子の数の減少、劣弱化も顕著だという。
一夫一婦制が問題?という話に、耳をそばだてる御仁(ごじん)もおられるかもしれないが、チンパンジーは「乱婚系」で、受精後も精子間の競争が激しい、という面を無視できないかららしい。顕微授精なども、本来なら卵子まで辿り着く競争で排除されてしまうべき精子が、授精の機会に恵まれることが問題なのだそうだ。
この傾向から外挿すると、実際にY染色体の遺伝機能が消滅するのは、五百万年先程度と見積もられる。五百万年といえば、ヒト一般やチンパンジーの歴史に近く、現生人類の歴史の二十倍以上だから、そこで、なんだ、ということになり、一安心するわけだが、一部の学者によれば、この傾向は一挙に加速する可能性があるらしい。
本書は、そんな刺激的な話題で始まるが、チンパンジーの話が引かれていることからも判(わか)るように、様々な生物の性決定のメカニズムが懇切丁寧に説明されており、ヒトの性に関しても、そうした生物一般の枠組みのなかの一つとして扱われている。そこでは、染色体が当然主役を務めている。
私が学生の頃、もう六十年以上前だが、生物学の主役は染色体だった。細胞核のなかに、試薬で染まる特別の物質があり、体細胞ではペア(相同染色体と呼ばれた)で、細胞分裂しても相同性は変わらないが、生殖細胞が作られるときは、いわゆる減数分裂によって、ペアが単数になる。授精で再び相同性が回復する。染色体には地図が描けて、遺伝子の所在場所が判ってきた。そんな話を、胸を躍らせて聴いたものだ。その後、染色体という概念は、DNAにとって代わられ、ゲノムという言葉で大づかみに語られることはあっても、DNA連鎖の運び手としての漠然としたイメージ以上の役割は薄れてしまった感がある。
しかし本書では、今でも染色体という形で捉えられる現象のなかに、解明すべきことが、多数残っていることを知らされる。中でも、性決定に関わるメカニズムの生物による多様性は、目を瞠(みは)るばかりだ。ある種の魚では、基本はすべて雌で、共同体のなかで最も大きいものだけが雄になり、卵巣は精巣に変化する。他方、共同体のすべてが基本的に雄で、その中の最大の個体が雌になる、という魚もいる。社会構造が性の決定因子なのだ。一方、チンパンジーの乱婚に触れたが、魚や他の生物でも厳格な一夫一婦制を堅持するものも少なくない。性を通じて生き物の世界の神秘に接する。本書はそんな機会を与えてくれる。
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