解説

『下町小僧―東京昭和30年』(筑摩書房)

  • 2017/04/23
下町小僧―東京昭和30年 / なぎら 健壱
下町小僧―東京昭和30年
  • 著者:なぎら 健壱
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(410ページ)
  • 発売日:1994-12-00
  • ISBN-10:4480029184
  • ISBN-13:978-4480029188
内容紹介:
東京の下町・木挽町生まれの異色のフォーク・シンガーなぎら健壱が、“どうしても書き残しておきたい”と綴った、昭和30年代の下町の小僧たち。縁日、銭湯、貸本屋、駄菓子屋、カタ屋、ベーゴマ、紙芝居屋、と下町の少年達をとりまくすべてが、いきいきよみがえる、あのなつかしい世界。

タイム・トラベラーなぎら健壱

レイ・ブラッドベリイの『火星年代記』に「第三探検隊」の話というのがある。地球から火星にむかって、第一次と第二次の探検隊が出かけたが、いずれも消息を絶ったまま戻ってこない。そこで、彼らを探しに第三探検隊が出発する。

ところが、第三探検隊が到着したとき、火星には不思議な町ができあがっていた。それは隊員たちが少年時代をすごしたのと寸分もたがわぬ町だった。窓からはおばあさんが耳を傾けていた国民愛唱歌謡が蓄音機から聞こえ、大好きだった七面鳥の焼ける香ばしい匂いが漂っている。初めのうち警戒していた隊員たちも、あまりの懐かしさに、もしかすると、これは第一次探検隊よりも何十年か前にひそかに火星にやってきた地球人たちが自分の故郷とそっくりの町をつくったのかもしれない、いやそうにちがいないと思いこむようになる。

そうこうしているうちに、隊員たちが、我慢しきれなくなったように一人また一人と無断で隊列を離れ、家の中に吸い込まれていく。子供の頃に暮らしていたのとまったく同じ家が姿をあらわしたのだ。やがて、隊長の目の前にも子供時代の家が出現し、死んだはずの兄が彼を子供部屋に案内する。隊長は兄と思い出話にひたりながら、幸せな気持ちでベッドにつく。しかし、そのときふと思う。これらはなにもかも火星人が隊員たちの記憶からつくりあげた幻覚の町ではないかと。だが、ときすでに遅く、第三探検隊の隊員たちは全員火星人の餌食となっていた……。

なぎら健壱さんの『下町小僧』の「前書きにかえて」を読んだときに、まっさきに思い浮かべたのが、ブラッドベリイのこの話だ。

なぎらさんは、板橋本町の迷路のような街並みでこの「第三探検隊」的な体験にであったと書いている。

「町は夕暮れだった。その路地に灯がともると、僕は妙な気持になった。既視体験ではないが、何か昔に一度、同じことがあったような気持にさせられた。遠い頃に見た、何やら身体で感じたことなのである。下町だ。僕は咄嗟に思った。昔懐かしい、下町の情景なのである。(……)僕は下町にずっと住みながら、実は下町を忘れかけている。しかもそれを教えられたのが、下町とは違う、板橋なのである」

じつは、私は、昭和五十一年(一九七六)に結婚してから五年間、この板橋本町の近くの本蓮沼と蓮根というところで暮らしていた。それまでは、生まれてからこのかた横浜に住んでいたので、新婚なのにいきなり板橋に住むとはずいぶん思い切ったことをすると友人に言われたが、なぜかこのあたりが妙に気にいって離れられなかった。というのも、アパート探しをするために、勤め先に近い都営三田線沿いの町を歩いたとき、板橋の町で、なぎらさんとまったく同じ体験をして、住むならここと決めてしまったからである。

じっさい、そこは、まさしく昭和三十年代にタイム・スリップしたような町だった。まず、なぎらさんがいうような、昭和三十年代の下町そのもののような迷路があった。二階建ての低いすすけた木造家屋ばかりがびっしりと軒を接して並んでいた。廊下が土間の木賃アパートがある。立派な門構えの銭湯が何軒もある。それどころか駄菓子屋や貸本屋さえある。しかもその貸本屋は、栗山邦正さんの絵にある通りの「間口一間半くらい」の広さの店で、奥で昭和三十年代そのもののようなオジサンとオバサンが座って店番している、私は日野日出志の恐怖漫画を借りた。すると『元旦の朝』という漫画の中に描かれた町並みもまた同じように昭和三十年代的なもので、なにか明治の粉ミルクの缶を抱いている女の子が描かれている明治の粉ミルクの缶を見詰めているときのような眩暈を覚えた。

家の前の公園で遊んでいる子供たちの中には、「葛飾新宿」に出てくるような頬に「幾筋もの、ナメクジが這ったような跡」のついている時代離れした坊主頭の子供もいて、ベーゴマやメンコで遊んでいる。それに、路地のいたるところに猫たちが集まって集会をしている。朔太郎の猫町だ。

第一、この町にはスーパー・マーケットがなかった。だから女房は引っ越して、まず最初に買い物籠を買わなければならなかった。ようするに、なにからなにまで生活構造が昭和三十年代風だったのである。

やがて、長男が生まれると乳母車に乗せ、町の隅々まで散歩してまわった。そして、いつか、昭和三十年代の失われた文化についてなにか書いてやろうと思うようになっていた。

後に、荒俣宏さんと知りあって、この話をしたところ、荒俣宏さんから意外な話を聞かされた。荒俣さんは、子供のころ板橋の大山あたりに住んでいたのだが、昭和三十年代には、蓮沼付近はその名の通り田んぼや畑ばかりで、そんな昭和三十年代風の路地はまだなかったというのだ。とすると、なぎらさんや私がタイム・スリップしたと思った板橋の迷路はいったいいつ出現したのか。

これは、まったくの私の推測なのだが、答えは、昭和三十年代の末頃に神田から板橋に移転した凸版印刷の工場にあるのではないだろうか。つまり、凸版印刷の移転にともなって、それにすべてを依存していた下町の零細企業や人間たちが自分たちの生活構造を保ったまま、いわば「町ごと」板橋に移転したのである。そして、そこで、さながらアメリカに「ニュー・イングランド」を築いたピルグリム・ファーザーズのように昭和三十年代風の「ニュー・下町」を一から建設したのだ。だから、本家の下町が消滅しても、板橋には下町が残ったのだ。

とまあ、こんな勝手な想像をしていたのだが、そんなとき、なぎらさんの『下町小僧』に出会った。正直いって、最初は「やられたー」と思った。私と同じ既視体験をしたうえに、同じ昭和三十年代の思い出を、しかも、こんなに幸せそうに書いてしまうなんて許せないと思った。だが、読み進むうちに、心から「参りましたー」とつぶやいた。私よりも三歳も年下の人間が、昭和三十年代のあらゆることをこんな細部にいたるまで、まるでビデオにでも撮ってあったように鮮明に記憶しているなどということがありうるのだろうか。

もちろん、それがたんに失われた事物や習慣のことだったら、あるいはなぎらさんよりも記憶力に恵まれた人がほかにもいるかもしれない。だが、この本に描かれているのは、たんに昭和三十年代下町の事物や習慣ばかりではないのだ。

この本の中でなによりも貴重に思えるもの、それは、そうした昭和三十年代の事物や習慣に付着していた独特の「生活感情」が見事なまでに再現されていることである。事物や習慣をめぐっての子供社会での屈辱感や優越感、あるいは、大人に対する子供の妙な「いたわり」の感情(コーラやスパゲッティーのエピソードを見よ)、そして、見返りになにを要求するわけでもなくごく当たり前に子供を愛していた父母の思い出。なぎらさんの文章を読んでいると、もしかすると、今日、本当に失われてしまったものは、事物や習慣ではなく、こうした昭和三十年代的な「生活感情」だったのかもしれないと思えてくる。

ところで、この本の中にただただノスタルジックに浸り切っていると、ほんの一瞬だが「第三探検隊の隊長」と同じように、ふと我に帰ることがある。そして、そのとき、こんなにまで完壁に昭和三十年代にタイム・トラベルしてしまっていいのだろうか。もしや、なにかとてつもない計略が張り巡らされているのでは。本当に、このまま、甘美な思い出に浸っていてばかりでいいのだろうか、あるいは……

いや、かまいはしない。たとえ、なぎらさんが火星人で、我々の記憶の中から一番のウィーク・ポイントを捜しだして、命を奪おうとしているのだとしても、それはそれでいいのだ。ただ、昭和三十年代の思い出の中に浸っていることができさえするならば。

【この解説が収録されている書籍】
解説屋稼業 / 鹿島 茂
解説屋稼業
  • 著者:鹿島 茂
  • 出版社:晶文社
  • 装丁:単行本(238ページ)
  • 発売日:2001-08-00
  • ISBN-10:479496496X
  • ISBN-13:978-4794964960
内容紹介:
著者はプロの解説屋である!?本を勇気づけ、読者を楽しませる鹿島流真剣勝負の妙技、ここにあり。

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下町小僧―東京昭和30年 / なぎら 健壱
下町小僧―東京昭和30年
  • 著者:なぎら 健壱
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(410ページ)
  • 発売日:1994-12-00
  • ISBN-10:4480029184
  • ISBN-13:978-4480029188
内容紹介:
東京の下町・木挽町生まれの異色のフォーク・シンガーなぎら健壱が、“どうしても書き残しておきたい”と綴った、昭和30年代の下町の小僧たち。縁日、銭湯、貸本屋、駄菓子屋、カタ屋、ベーゴマ、紙芝居屋、と下町の少年達をとりまくすべてが、いきいきよみがえる、あのなつかしい世界。

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