書評
『イタリア・トスカーナに暮らして』(白水社)
シルヴァーナの料理と生活
イタリアはトスカーナ地方の人々と食材に惚れ込み、ついには夫とふたりで田舎家の住人となってしまった英国人エリザベス・ローマーは、家主の妻シルヴァーナ・チェロッティと意気投合し、台所での彼女の仕事ぶりを飽かず眺めるようになった。チェロッティ家は幾世代にもわたって農業を営んできた人々で、現在でも四百ヘクタールにおよぶ領地を耕し、伝統的な生活様式を守り抜いている。主たる金銭収入は政府が買い取るタバコの栽培によるものだが、食べ物についてはほぼ自給自足が原則だ。森では暖炉の薪を拾い集め、野生のキノコを採取する。川ではニジマスを釣り、切り開いた畑ではブドウとオリーヴを実らせてワインやオリーヴ油をつくり、麦を刈る。精製した小麦でさまざまなパスタを打ち、週に一度、固いトスカーナ・パンを焼いて、雌羊のミルクで作ったチーズや、良質な豚で丁寧にこしらえたプロシュートといっしょに食べたり、スープに入れたりする。鶏は放し飼いにしてトウモロコシを食べさせているので抜群の味だ。夏のあいだ大量に収穫したトマトは瓶詰めし、あまったキノコ類は乾燥させて保存する。狩猟のシーズンともなれば、キジを撃ってシチューにしたてることくらいなんでもない。そんな暮らしを楽しんでいるチェロッティ家の女主人シルヴァーナは、新鮮な素材を生かした家庭料理の達人だ。どんなに単純な料理でも、自家製のオリーヴ油やワインをあしらうだけで素晴らしい味に仕あげてみせる。「おおかたのイタリア人の例にもれず、シルヴァーナに材料の分量を聞いても、おおまかな答えしか返ってこない。必要なだけとか、ひとつかみとか、ほんの少し、といった風な調子だ。それでも彼女はぴたりと味をきめてしまう」。著者エリザベス・ローマーは、経験につちかわれたシルヴァーナの料理の数々を、彼女の日常生活ともども書き留めておこうと考える。『イタリア・トスカーナに暮らして』は、だから考古学者でありテキスタイル・デザイナーでもあるというローマーの、田園生活入門であり観察記録なのだが、田舎暮らしのいたずらな賞揚に終わらず、考古学者らしい地道なフィールドワークの細心さが随所に光っていて、シルヴァーナの夫オルランドや羊飼いが、まるでゆったりした時間の流れる英国小説の登場人物のように描かれている。
ローマーに本書の執筆をうながした真の動機は、料理への関心である以上に、ほがらかで頼りがいのある、そして憎めない偏見にも恵まれたシルヴァーナその人の魅力にあっただろう。目論見どおり、彼女を中心に動いているチェロッティ家の生活と四季の移り変わりが、正確かつふくよかに記録されており、そのすべての場面にシルヴァーナの笑みが溢れている。この笑みがなければ、トスカーナの自然も簡にして要を得たレシピの価値も半減してしまったにちがいない。冒頭近くで紹介されているように、原著刊行時の数年前、彼女は十六歳の長男を、トラクターの事故で亡くしている。息子の遺体を畑から抱いて帰ったというこの悲しい挿話が、明るい陽光だけが降り注いでいる夢のような村の暮らしのなかで、少量だが効き目のあるスパイスの役目を果たしている。
ところで、すぐれた料理の指南書は、素人でもきちんとできる記述を絶対条件とする。
一月から十二月まで、月ごとの行事や食卓を賑わす多種多様な食材と調理法を紹介していくこの本は、美味しそうなレシピをかかげながらも余計な図版をきれいに抜いている。永遠の名著『おそうざいのヒント365日』(朝日文庫)に匹敵する淡白な趣きだ。ありがたいことに、選ばれているレシピに指定された食材の大半は、価格を度外視すれば大都市近郊のスーパーで揃うものばかりなので、私はとりあえず普段から類似物を食べ慣れている何品かに的をしぼり、本文の記述にあわせて妻に料理してもらった。その結果判明したのは、美しい表紙の上製本であるにもかかわらず、この一書が台所に常備しておくべき極めて実用的な料理本だということである。セピア色のインクで印刷されたページの余白が、オリーヴ油やトマトソースで汚れてしまったとしても、著者も訳者も版元も、たぶん大目に見てくれるだろう。
【この書評が収録されている書籍】
初出メディア
