書評
『不機嫌な果実』(文藝春秋)
林真理子、不機嫌な現代小説
林真理子の『不機嫌な果実』(文藝春秋)を読んでいて、「これってなんかあれだよなあ」と何度も思った。「なんかあれ」というのが何なのか、実をいうと当人にもよくわからず、しばらくたって突然「そっか、なんかあれって、フロベールだったんだ」と思いついたのだった。
――というようなことを書けば、少しでも文学史的知識があればフロベール=『ボヴァリー夫人』=不倫小説=『不機嫌な果実』という等号関係が想像されてしまうのだが、実をいうと「なんかあれ」は若干違うのである。
近代小説の元祖が『ドン・キホーテ』なら、現代小説の本家・家元は『ボヴァリー夫人』(この際、異論は認めません)。
近代小説の元祖たる『ドン・キホーテ』は、意外なことにメタフィクション風冒険小説、こういっていいならほとんどポストモダンな小説で、近代小説は最初から超近代小説でもあったのだという感慨を読む者に覚えさせる。
しからば、『ボヴァリー夫人』はどうか。現代小説の本家・家元が不倫小説だったことには果たしてどんな意味があるのか。
ここで、恥ずかしいことを一つ告白しておくと、この「現代小説の神様」フロベールを筆者がはじめて読んだのは三十歳過ぎ、作家デビューして後のことである。まあ、そういう(読むべきものを読んでいない)ことはよくあるのでご容赦願いたい。とにかく読んで、驚いた。めっちゃ、面白いのである。とかく「神様」は面白くないものと相場が決まっているが、この神様は違う。どこが面白いのか。俗っぽいところだ。
『ボヴァリー夫人』のヒロインは不倫関係に陥る。相手はつまらぬ男だ。夫は? これもつまらぬ男である。で、当人はというと、これもつまらない。いや、「ふつう」なのである。どういうふうに「ふつう」なのか。燃えるような恋を「志望」してしまうところがいかにも「ふつう」なのである。
「燃えるような」恋愛小説のヒロインは、「突然」恋に「落ちる」のであって、決して恋を「志望」してはならない。「志望」するということは、ほとんど受験勉強と同じで、傾向を知って対策を練らなければならず、そういう人間の心の動きは最初から最後まで俗っぽい。
フロベールのもう一つの傑作『感情教育』の主人公は芸術を「志望」する。「志望」する以上、彼の運命はボヴァリー夫人と同じである。傾向と対策のことを考え続ける日々、そしてある日、老いた彼は突然気づく。遥か昔から、自分は芸術とは無縁であったのだ。
フロベールが書いたのは、「志望」は「夢想」と同じであるということだった。ただ「志望」するだけで、「ほんものの」恋とも「ほんものの」芸術ともついに無関係に終わる人々。それが「ふつうの」人たちの運命なのだ。
そして、フロベールによってはじめてそんな「ふつうの」人たちが小説の主人公になったのである。
『不機嫌な果実』のヒロイン、水越麻也子は「ふつうの」主婦である。彼女は不倫を「志望」している。だから、その傾向と対策を考えながら、少しずつ、ボヴァリー夫人のように「志望」を実行に移していく。だが、彼女はボヴァリー夫人のように破滅することはないであろう。彼女は不倫のすべての段階でいつも絶対的に冷静だからだ。なぜそうなのか。ボヴァリー夫人は最後まで恋愛を信じようとしたのに、水越麻也子はなにも信じてはいないからだ。現代小説は(あるいは「ふつうの人は」)そこまで進化したのである。
【この書評が収録されている書籍】
ALL REVIEWSをフォローする



![あの頃映画 「不機嫌な果実」 [DVD]](https://m.media-amazon.com/images/I/41u-t6SGAML._SL500_.jpg)






































