書評

『水死』(講談社)

  • 2020/01/15
水死 / 大江 健三郎
水死
  • 著者:大江 健三郎
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(544ページ)
  • 発売日:2012-12-14
  • ISBN-10:4062774321
  • ISBN-13:978-4062774321
内容紹介:
終戦の夏、父はなぜ洪水の川に船出したのか? ノーベル賞作家が生涯をかけて模索してきた「父の水死」という主題をめぐる長編小説。

困りのなかを進む

今年の一月の一日に、年も明けたことだし心機一転、はりきって仕事をすっかな、ここは一番。と決意して仕事を始め、三日までは精励したが三日坊主という言葉通り四日目になると懈怠の心が起ってグズグズしてしまった(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は2010年)。そこで神詣をし、神仏に縋ることによって事態の打開を図ろうと考え、外出の準備を始めたところ、リビングで居眠っていた二頭の駄犬が散歩に行くものと勘違いして狂喜して暴れ出し、駄犬は大型犬なので敷物がぐしゃぐしゃになり、いろんなものが倒れ、外出の準備が停滞した。

そこで、いずれは出掛けるが直ちに出掛けるものではない。それが証拠にほらこの通り。と言ってテレビの電源を投入した。駄犬に、「あっ、テレビ番組を見るのだ。ということは出掛けないのだ」と思わせるための謀略である。

しかし駄犬は謀略を直ちに見抜き、なおも狂喜して、ぴょんぴょん飛び、走り回り、静止して脚をジタジタするなどして暴れ回った。

かくも喜んでいるのに散歩に行かぬのはあまりにも無人情に思われたので、やむなく神詣の準備を犬の散歩の準備に切り替え、首輪や引き綱を取り出したところ、犬はますます喜びますます暴れていろんなことがますます無茶苦茶になった。

そのときテレビでは自殺した落語家・桂枝雀の特集番組をやっていて、無茶苦茶ななかで準備を続けつつ、映像は見ないで音声だけを聴いていたところ、桂枝雀は、落語の登場人物というのはいつも困ったことを抱えている。それは生き死にに関わるようなことではないが、いずれにしても登場人物が困っていることが落語を成り立たせているのだ、と語ったと関係者が語っているのが聴こえ、その言葉が気にかかって、続きを聞きたかったのだけれども散歩の準備ができてしまったのでそのまま出掛けた。

それで浜辺を散歩をしながら考えたのは小説のことで、小説も登場人物が困っていることによって話が進んでいくことが多い。ただ、落語と違うのはその困りの範囲がより広いことで、困りの範囲が広いということは困りの度合いが深いということで、困りが困りのまま、ますますこじれて作者自身が困ってどうにもならなくなる。ならば、どこまで困りの範囲を広げるかは基本的には作者に任せられているのだから困りの範囲をあまり広げないようにすればよいのだけれども、小説の作者には困りの範囲を可能な限り広げたいという欲求が常にあって、だから小説家はいつも困っているのだけれども、あまりにも困りすぎると困ったことになるので、ぎりぎりのところで困りを切り上げて困るのだけれども困らない程度に困ることにしておき、その結果、本当の困りの手前で引き返してしまって、ぬるいなあ、と思ったり思われたりしているのである。

「水死」では、父親の水死についての水死小説を書こうとしている主人公のいろんな次元の困りが縦横に、これでもかというくらいに巡らせてあるが、その根本にある困りは、書いても書いても、本当のこと、にたどり着かず、その原因が外の世界ではなく、自分のなかに入れ子のようになってある、という太い困りである。

そんな太い困りを困ると小説はなかなか進まなくなるのだけれども、その困りのなかを物語がグイグイ進んでいく。

しかし、ただ困ったことが起きてそれが解決したり解決しなかったりするだけでは小説を書く意味も読む意味もないし、こんなに巨大な困ったことを起こしたうえで見事に最後まで書いた、どうだ凄いだろう、と誇られても困る。

ではなにが必要なのかと言うと、その困りのなかを進むことによっていままで小説のなかの人物が、見えなかったものが見えたり、わからなかったことがわかったり、わかっていると思っていたことが実は全然、わかっていなかったことがわかるということで、そのことによって、その時点での本当のことにたどり着けるということが必要なのだと思う。

その見えることはなにかというと、なんか二重な感じでありながらも、その二重な感じを善きものと受けとめて、小説を書いても書かなくても、ひとつのまとまりとして、前半があって中盤があって後半があると当然、考えていた自分の、さらに前半があるということで、しかもそれはいまの自分のまとまりからはみ出る前半で、前半があって中盤があって後半があると思っていた自分は実は大きな後半で、その前半をみるということである。

そしてその前半をわかるだけではなく、「水死」では、そのわかった前半がいまの後半の自分に接続されて、二重になってさらにその後半に響いていく様が凄いと思った。

その、ふたつのものが響くというイメージが反復されながら意味がうねって大きな次元の意味を生む様は繰り返しの技法を用いた呪術的な音楽を聴くようでもある。

さらにこの小説には、演劇のリハーサルの様子や、演劇が上演される様子を伝える手紙や演劇が制作される過程が描かれる。劇のなかでは、すべてがいったん仮のこととなるので、命に限りがあり、幼年から老年に向かうしかない実際の人間が、いまの自分のまとまりからはみ出る前半をいまの自分に繋げるのが難しいのに比して後半から出発して前半にたどり着いたり、複数の道筋を行ったり来たりすることができるようになるのである。

そうすることで、初め、違うものとしてとらえられていた水の印象と木の印象、海の印象と森の印象がひとつのものとなり、そのひとつのものとなった印象が登場人物の人生と重なる。本当のことに近づく。

劇的に進んでしまった事態に決着をつけると大体、白くなるのだが、それをきっちりやりつつ、立ったままの水死をやり遂げる、最後の美しい文章にやられた。やられた。やられた。
水死 / 大江 健三郎
水死
  • 著者:大江 健三郎
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(544ページ)
  • 発売日:2012-12-14
  • ISBN-10:4062774321
  • ISBN-13:978-4062774321
内容紹介:
終戦の夏、父はなぜ洪水の川に船出したのか? ノーベル賞作家が生涯をかけて模索してきた「父の水死」という主題をめぐる長編小説。

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初出メディア

新潮

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