書評
『ルポ 人は科学が苦手 アメリカ「科学不信」の現場から』(光文社)
欧州的知性主義への反発
アメリカと言えば、科学系のノーベル賞受賞者は圧倒的に多いし、学術誌掲載論文数も群を抜いている。つまり誰しもアメリカは科学大国だと思っている。しかし、物事には常に裏表がある。そのことを、ジャーナリストの立場から、豊富な取材と調査で描き上げたのが本書である。確かに、アメリカでは、いわゆる原理主義的なキリスト教の立場から、かつて「スコープス裁判」というのがあって(一九二五年)、公教育の場でダーウィン進化論を教えた教師が裁かれた史実があり、現在でも宇宙全体に何らかの知的・超越的な存在の「計画」が働いている、という「インテリジェント・デザイン」説が、侮れない勢力を示していること位は、比較的知られた事実だが、本書では、そうした宗教的な場面ばかりではなく、ネットでも結構喧(かまびす)しい非科学的な「陰謀説」なども含めて、科学への否定的な態度が、社会の基層に蟠(わだかま)っており、ことごとに表面化しているようである。その様子を、著者は、数々のインタヴューや集会への参加を通じて活写している。
一九七〇年代、世界的に「反科学」運動があった。ポスト・モダンの行き過ぎで、近代西欧の所産は何でも疑ってみるという姿勢が生み出したものだが、著者の診るアメリカの現状は、明らかにそれとは、あるいはそれの名残りとは違うようだ。具体的なトピックスでは、進化論は依然主要な話題だし、特に顕著なのは地球環境問題、宇宙探査問題、そして堕胎問題など。
地球環境問題と宇宙探査問題とは、ともにいわゆる「陰謀」説が俗受けする格好の分野だが、現代アメリカでは、かなりな社会層まで浸透しているようだ。著者は、こうしたキャンペインに携わる人々を、一概に馬鹿馬鹿しいと切り捨てず、そのような状況の背後にあるものまで、丹念に探り取ろうとする。そこから浮かび上がってくるものは、当初は誰もが真面目には受け取ろうとしなかったトランプ氏の大統領当選とも結び付く、アメリカ現代社会の重要な幾つかの特性である。
著者の分析から読み取れるのは、アメリカ社会の最も深層にある、ヨーロッパ的知性主義への本能的な反発である。無論それは今に限ったことではない。しかし、科学・技術の社会化が極端にまで進んだ今日、人々は自分たちの生活の中に意識しないままに、そうした一種のコンプレックスを確認しているのではないか。この構図は、アメリカの国内の分断に引き継がれる。ハーヴァードに象徴される東海岸のインテリ層へのコンプレックスがそれだ。それに、自分で体験した世界だけを信じる、という強い現実的経験主義が加わる。付随的要素としては「福音(ふくいん)派」と呼ばれるプロテスタントの一派の信条(心情)がある。これらは、アメリカ史のなかで、浮沈を繰り返してはいるが、今はその波頭が顕著に見える時代なのか。
さらに、単にこうした現象面での記述・説明だけでなく、そのような社会に対して、科学理解を深めるための方策にも著者の筆は向く。かつて「サイエンス・フォー・オール・アメリカンズ」という科学啓蒙(けいもう)の教科書のようなリポートがあったが、知識が欠けているから、それを補えば、という姿勢(よく「欠如モデル」と表現される)で臨むのではなく、相互の心性の理解に基づいた、双方向的なコミュニケーションこそが、事態の解決への道筋であろう、という提言で結ばれる。アメリカという対岸の火事では済まない教訓を孕(はら)んだ書物だ。
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