書評

『黄金夜界』(中央公論新社)

  • 2019/09/06
黄金夜界 / 橋本 治
黄金夜界
  • 著者:橋本 治
  • 出版社:中央公論新社
  • 装丁:単行本(371ページ)
  • 発売日:2019-07-06
  • ISBN:4120052109
内容紹介:
橋本治が命を賭して紡いだ長篇遺作。愛と金、人はどちらに飢えるのか? 愛する人に裏切られた美青年・貫一の空洞が今、輝き出す――

下流社会と富裕層の鮮烈な対比

本年一月に急逝した作家・橋本治氏の遺作と言える小説。尾崎紅葉『金色夜叉』にプロットを借りる。一昨年から昨年にかけて読売新聞に連載された。

主人公・間貫一は生後すぐ母を、小学六年で父を亡くし、父の親友・鴫沢に引き取られた。その家には二歳年下のヒロイン美也がいて、兄妹同様に育てられる。だがやがて、男女の仲となり、親に知られてしまう。貫一、結婚は認めるが、お前が東大を出てからだ。家業のレストラン遠望亭を継ぐのだぞ。

お嬢さま育ちの美也は在学中にモデルとなり、IT長者の富山唯継に見初められる。モデルに限界を感じていた美也は「大人になりたい」と求婚を承諾。衝撃を受けた貫一は、卒業直前にすべてを捨てて家を出る。

このリメイク小説のポイントは第一に、下流社会の過酷な現実と富裕層との鮮烈な対比である。遠望亭は斜陽の昭和そのもの。対する富山はリッチな平成の勝ち組だ。貫一は住所もスマホもなくし、ネット喫茶をねぐらに手持ちの現金を数えては、日払いブラック・バイトで食いつなぐ。東大生から一夜でホームレスに転落し、ぎりぎりのその日暮らしを続けるヒリヒリした感覚が読む者に刺さる。

廃業寸前の町工場で、貫一は救われる。日払いは辛かろう。社長夫婦の世話でアパートと人間並みの待遇をえて、飲食業界でのし上がる目標を手にする。そして居酒屋チェーンの下働きから正社員へ、社長付きへと、階段を這い上がっていく。

ポイントの第二は、めいめいの心の奥底の情念をあぶり出している点。居酒屋チェーンの社長は、合理的な新企画を提案する自信満々の貫一に嫉妬し、彼を辞めさせる。女高利貸の満枝は、新企画への出資を説く貫一に、金の力に屈しない目力をみる。美也は、美貌の妻をただの飾り物と扱う夫の俗物性を見、それをよしとする自分にも空虚を見る。あるとき美也は、貫一が虎ノ門にメンチカツ店をオープンしたと知り、吸い寄せられるように会いに行く。「離婚するの」「それを、僕に言ってどうするの?」そこへ、共同出資者の満枝も割り込んで、男女の修羅場を演じる。そして思いがけない破局が待っている。

あえて明治の通俗小説の上書きをする橋本氏の『黄金夜界』は、通俗小説ではない。明治は格差社会で、平成も格差社会。カネを中心に社会が回る。そこに踊る群像は、思い切り類型的だ。が、だからこそわれわれの大部分に当てはまり、思い当たる節がある。第三者には喜劇でも、当事者にとっては宿命だ。誰もがその舞台で、ささやかな役回りを演じさせられている。類型的で愚かな登場人物を上から目線で見下しているうち、読者はふと、彼らより自分はさらに卑小だと気がつく。それに気づくと、『黄金夜界』は平成日本の、みごとな縮図となっていると見えてくる。傑作だ。

傑作ではあるが、橋本治氏がどこまで本気で、この小説を書いているのかわからない。多作な氏は、借金を抱え、書けそうだと思えばどんな仕事も引き受けた。プロットを借りたのは、省力化のためもあろう。カネに踊らされている自身を、描きたいという悪戯(いたずら)心もある。橋本氏も貫一と同じ、東大出だ。軽い気持ちで手がけた仕事かもしれなくても、プロの仕事はディテールが細かい。ホームレスのつぶされそうな心情やニューリッチの馬鹿さ加減は、本人を取材したのかと思うほどリアリティがある。大作も小品も見事に仕上げてしまう橋本氏の、新作をもう読むことができないのかと思うと、心底口惜しい。
黄金夜界 / 橋本 治
黄金夜界
  • 著者:橋本 治
  • 出版社:中央公論新社
  • 装丁:単行本(371ページ)
  • 発売日:2019-07-06
  • ISBN:4120052109
内容紹介:
橋本治が命を賭して紡いだ長篇遺作。愛と金、人はどちらに飢えるのか? 愛する人に裏切られた美青年・貫一の空洞が今、輝き出す――

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2019年8月25日

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