東映任侠映画のスター、松方弘樹の最後の作品
2017年1月21日、東映任侠映画のスター、松方弘樹が死去した。その直後に校了したのが本書である……と『無冠の男 松方弘樹伝』の序文にはある。これは松方弘樹最後の言葉、その遺言というべき本である。書き手は『北陸代理戦争』(77年)とその完成後に主人公のモデルとなったヤクザが殺害された「三国事件」について書いた『映画の奈落 北陸代理戦争事件』(講談社+α文庫)の作者。2015年10月からほぼ20時間にわたるインタビューによって、「最後の映画スター」松方弘樹の軌跡を描き出そうとする。最後の本になってしまったのは偶然である(だが、松方の側には思惑はあったかもしれない)。松方は1942年7月23日、時代劇スターの近衛十四郎と女優・水川八重子のあいだに生まれた。近衛は日本一の殺陣の名手として知られ、立ち回りの迫力はよく語られるところである。歌手志望だった松方は作曲家の内弟子になるが、近衛が東映に移籍したとき、大川博社長になかば騙されるかたちで17歳で映画デビューを果たす。それから9ヵ月のあいだに8本も作品を撮った。撮影所から徒歩1分のアパートを借りていたにもかかわらず、まったく帰らせてもらえず泊まりっぱなしになって、「とんでもない会社に入ったと思った」という。タコ部屋企業の本領発揮である。
だが、17歳でアイドルになった松方はさっそく「洋酒、洋モク、外車といい女」に飛びつく。艶福家のエピソードには事欠かない。ハワイの劇場に公演に行ったときには、コールガールが買えると言われる。値段はピンキリで25ドルから200ドルと言われると、じゃあ両方試してみようと金を借りて買ってみる。1ドル360円、海外への持ち出し限度額が200ドルだったころの話だ。あるいは芸者となじみになったら、寝物語で市川右太衞門の落胤だと聞かされて「殺される」とほうほうのていで逃げ出す……ほとんど東映不良映画のコミック・シーンそのものの場面が連発する。
時代劇に出るようになってからのチャンバラ修行も無類におもしろい。殺陣の名手だった近衛十四郎と共演したときの鬼気迫るエピソード。あるいは「この人に勝る役者はいないくらいに思ってて」という中村錦之助(萬屋錦之介)への思い。若くして東映に入りながらもなかなかトップスターにはなれなかった松方の諸先輩評はなかなかに興味深い。鶴田浩二を人見知りがはげしい「愛嬌のある先輩です」と呼び、「頭越しに入ってきて、上の役を取っていく」菅原文太に嫉妬しながらもその気遣いを語るのに対し、ただひとり、
「鶴田のおっさんはからかいますけどストレート、文ちゃんも芝居にあれこれ言いますが男らしい。でも、健さんはものすごくバリアを張る人で、ぜんぜん男らしくない。“男高倉健”はまったくの虚像です」「僕は健さんが生きてるときから言ってるから……。僕はほんとうに先輩方に恵まれましたが、高倉健はそのなかで唯一、好きになれなかった先輩です」
好きになれなかった、とまで言うのはなかなかである。だが、これは悪意からではなく、松方のオープンな性格を示しているのだろう。女性関係や先輩評だけでなく、撮影所に出入りしていたヤクザとのつながりも隠さない。『修羅の群れ』(84年)で演じた稲川会総裁の稲川裕芳についても
「稲川会の宴席に招かれたことがあるんです。最前列に座っていると、総裁が出てくるんです。壇上にあがったときの総裁の、あたりを払うっていうか他を圧するというか、とにかく存在感が凄かったァ。僕がいままで出会った人のなかで、人間のパワーという点で、田中角栄と稲川総裁は断トツです」
と賞賛を隠さない。いっぽうで監督としては「殺されそうになった」のが中島貞夫。『東京=ソウル=バンコック実録麻薬地帯』(72年)ではソウル市内でバスジャックの場面を撮影していたら、本物のバスジャックだと思った軍に取り囲まれたことさえあるという。この場面の中島貞夫、さすがは東大卒としか言いようがない。
だが松方弘樹の豪放磊落、何に対してもオープンな性格にも演じていた部分があったのかもしれない。関本郁夫監督は松方を評して言う。
「弘樹ちゃんには無理をしてる部分がちょっとあったんじゃないかな、と外野席からだけど思ってたな。石原裕次郎や勝新太郎のあと、むちゃくちゃな遊びをする豪快な役者がいなくなって、彼がそのイメージを一身に背負わなきゃならなくなった。マスコミが彼にそういうイメージを抱いて、期待しはじめたので、弘樹もかつての映画スターというイメージの残骸を演じなきゃならなくなったんじゃないかな」
ならばこの本もまた、松方の最後の作品なのかもしれない。