書評
『映画の奈落 完結編 北陸代理戦争事件』(講談社)
実録路線終幕の象徴『北陸代理戦争』が放つ“映画の悪”
ヤクザを描いた映画のせいでヤクザの抗争が生まれ、実際に人が殺された……。ケネス・アンガーは悪についてこう語った。「悪とは魅力的で、抗いがたく、魅惑的でありつつ究極的には決して満たされぬ非現実へと誘惑するものだと思う。そのすべてが映画についてあてはまるだろう」映画は決して満たされない夢へとわれらを誘いこむ。それに魅入られてしまえば、そこには破滅が待っているだろう。それは映画そのものが本質的に孕んでいる悪である。あるいはそれを「映画の奈落」と呼んでもいいかもしれない。
『映画の奈落』は1本の映画についての本である。1本の映画がいかに人を虜にし、いかに人を破滅させたかについての本だ。1977年、東映京都で作られた『北陸代理戦争』は福井県に本拠を置き、「北陸の帝王」と呼ばれた川内組の川内弘をモデルにした実録ヤクザ映画である。川内は柳川組の北陸侵攻に果敢に立ち向かい、相手を撃退した武闘派ヤクザだ。だが、映画の製作はトラブル続きだった。主演予定だった菅原文太は実録路線に嫌気がさしており、代わりに松方弘樹が主役となった。いっぽう、副主人公格となる渡瀬恒彦は撮影中に大事故を起こし、瀕死の重傷を負う。豪雪の中で撮影は遅れに遅れ、撮了したのは封切りのわずか3日前だった。不眠不休でポストプロダクションを終え、ようやく公開した映画は不入りに終わり、実録路線の終幕の象徴となる。
だが、それだけではなかった。この映画には、誰も予想もしていなかった結末がついていた。
公開の2カ月半のち、川内組長はヒットマンに襲われて射殺される。事件は映画の中で襲撃が起きるのと同じ喫茶店で発生した。つまり、現実が映画を模倣したのである。しかも、ヒットマンを放ったのは川内が盃を受けていた山口組最高幹部の菅谷だった。『北陸代理戦争』のラストで、主人公川田(川内がモデル)は盃を受けたボス岡野に言い放つ。
「頭、飢えた狼は、親兄弟やって、喰い殺しますよ」
「すると、なにか、わりゃ、浅田が相手でも、かまえると言うのか!」
「勝てない迄も、刺しちがえることは出来ます、虫ケラにも、五分の意地って言いますからね」(決定稿より)
そして映画の続きのように、反逆の刃を向けられたボス菅谷は川内を襲ったのだ。菅谷と川内はかねてより不仲だったが、『北陸代理戦争』の製作が2人のあいだに決定的な亀裂を生んだ。ヤクザを描いた映画のせいでヤクザの抗争が生まれ、実際に人が殺されたのだ。それが映画の悪である。
『映画の奈落』ではいかにしてこの悪、魅力的な非現実がこしらえられ、どのようにみながそこに魅了されていったのかが描かれる。その中心となるのは脚本家、高田宏治である。笠原和夫が降りた後を受けて『仁義なき戦い 完結編』(74年)の脚本を引き受けた高田が、川内との出会いに、笠原の影から抜け出すチャンスを見出したのだ、と著者は書く。その見立ての当否はともかく、『北陸代理戦争』がさまざまな人の運命を飲みこんでいく運命の渦だったことはよくわかる。高田はもちろん、現役のヤクザを主人公にしてフィクションを作ることの危険性はわかっていた。だが、それでもなお、辞めることはできなかった。
もちろん、川内さんの今ある立場や状況について甘く見ていた部分はあった……けれど、あぶないと思っていても、映画は作ったと思うね。生きている人、生きている事件をネタにするのはこわい。しかし、奈落に堕ちる覚悟でつくらなければ、観客はついて来えへん、見物がのぞきたがるような奈落に突き進み、それをすくいとって見せなければ映画は当たらへん、奈落の淵に足をかけた映画だけが現実社会の常識や道義を吹っ飛ばすんや。
高田がいかに「奈落の淵に足をかけ」ていたかが明かされる終幕は衝撃的だ。
『北陸代理戦争』はひとつの時代の終わりであり、新たな時代のはじまりでもある。それはたぶん高田も川内も深作欣二も誰も思わなかったかたちで実現した。誰の意図でもなかったが、だがそれは必然だったのだ。そのこともまた、この本にはしっかりと描かれている。
映画秘宝 2014年8月号
95年に町山智浩が創刊。娯楽映画に的を絞ったマニア向け映画雑誌。「柳下毅一郎の新刊レビュー」連載中。洋泉社より1,000円+税にて毎月21日発売。Twitter:@eigahiho。