書評
『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』(星海社)
物語よりキャラ 変化の構図、説得的に
マンガがつまらなくなったという声をよく聞く。だがそれは違うと本書の著者はいう。手塚治虫の作品を規範として育ち、戦後マンガの奇跡的な成長を支えた読者や評論家に、今のマンガの魅力が分からなくなったのである。テヅカ イズ デッドと宣告される理由だ。その決定的な分水嶺(ぶんすいれい)は一九八〇年代半ばにあると著者は分析する。そのとき日本マンガに何が起こったのか? キャラクターからキャラへの移行である。
キャラクターとは、絵の背後に人生や生活を想像させ、内面を感じさせる人物像である。ひと言でいえば、物語性を生きる存在だ。これに対して、キャラは、固有名をもち、人格的な存在感ももつが、人生や内面をもたない。だから、これまでのマンガの読者はキャラに同一化することができない。にもかかわらず、現在のマンガを支える読者は、現実的な身体性を欠いたキャラに強く感情的に反応する。読者のかなり一方的なこの感情的反応が、「萌(も)え」と呼ばれる。
八〇年代後半以降のマンガのなかでは、物語よりもキャラの魅力が優位に立ち、マンガ家の自己表現より読者の「萌え」の方が大事な要素になった。近代的な自己表現としての物語の終わり。すなわち、ポストモダンへの突入である。
こうした大きな見取り図を説得的に展開する著者はまた、マンガの細部の読み取りにも天才的な繊細さを発揮する。その力量は、手塚治虫の『地底国の怪人』においてキャラの力が抑圧・隠蔽(いんぺい)され、代わって近代的人間の物語が戦後マンガの導きの糸となったことを解き明かす二十数ページに結晶している。この鮮烈でシャープな読解の力業に、私の背筋に戦慄(せんりつ)が走ったことを告白しておこう。
つまり、キャラの魅力は、「手塚治虫=マンガの近代」の前から存在していた。従って、マンガのポストモダンとは、マンガ固有の本質への回帰だとも見なせる。だが、とここでマンガ旧世代に属する私は悲しく思うのである。萌えを誘発するキャラがマンガ固有の魅力だとするならば、私はこの魅力とともにマンガの未来に行くことはできないな、と。
【単行本】
朝日新聞 2005年11月13日
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