書評

『日本の200年〈上〉―徳川時代から現代まで』(みすず書房)

  • 2017/07/23
日本の200年〈上〉―徳川時代から現代まで / アンドルー・ゴードン
日本の200年〈上〉―徳川時代から現代まで
  • 著者:アンドルー・ゴードン
  • 翻訳:森谷 文昭
  • 出版社:みすず書房
  • 装丁:単行本(399ページ)
  • 発売日:2006-10-00
  • ISBN-10:4622072467
  • ISBN-13:978-4622072461
内容紹介:
「こういう日本史を待っていた」世界のどの国の人が読んでも"共通に理解できる"新しい近現代日本史が、ここに誕生した。英語版につづいて中国・韓国・スペイン語版も続々刊行。
高校の未履修問題で教育の現場が揺れている。大学教育に携わる者の一人として、思い当たるふしが少なくない。じっさい、大学生の知識は偏りが大きい。受験科目でなければ、基本的なことも知らない。日本の近現代史はその一つ。そんなときに本書が刊行されたのはありがたい。

むろん本書の意義はそれだけにとどまらない。二十一世紀にふさわしい歴史記述とは何かについて考える上でも示唆に富む。

ヘロドトスも司馬遷も歴史を書くときに、時間の意識が語りの中心にあったが、歴史記述が空間的に区分されるべきかどうかについては、ほとんど考えていなかったようだ。

ところが、ヨーロッパで近代国家が成立してから、歴史は領土内に固定化され、過去の記述は内向きになりがちだ。近年、グローバル化に対する嫌悪感を背景に、公共空間において、そうした傾向はむしろいっそう増強された。その反面、自国の過去についての、内部の記述に対する不信も生まれた。

本来、歴史記述は国民国家の都合によって左右されるべきではない。トランスナショナルな動きが進んでいる現在、境界を超えた知見が求められている。風通しをよくするためにも、外の空気を入れることが必要だ。その場合、海外における日本史の研究はただの参照軸ではない。歴史記述に参画し、過去の語り方について積極的に発言することが期待される、本書はそれに対する一つの応答と言えよう。

日本に限らないが、どの国の歩みも世界史の一部であり、その歴史的な経験は全地球で共有されるべきである。著者は、自分が日本研究者というより、たまたま日本を研究対象とする歴史家だと言っている。この主張は、語りの権利が誰にあるかというより、歴史記述のあり方についての問題提起となる。

だからといって、著者は「外部」という立場を特権化したわけではない。相対化はあくまでも記述の正確さのためのものである。それを可能にしたのは、学問的な水準の高さだ。外国人の手になる日本史はこれまでにもあった。ただ、以前は物珍しさで見られることが多かったが、本書の内容や引用された文献からうかがえるように、いまは内外の間に、もはや学術上の上下関係はない。

日本史の研究者として、著者は労使関係の歴史を専門にしており、これまで多くの研究成果を発表してきた。その強みは近代史の全体像の再現においても力を発揮した。明治大正期の女工の労働条件や組合の活動についての紹介は、近代化の過程を多面的に理解するのに役立ち、二十世紀後半の働く人たちや仕事現場についての言及も、違った角度から戦後社会に光を当てることになった。生産労働やそれに関連する組織活動から、近代性の形成プロセスを見いだそうとしたのは面白い着眼だ。

過去の証言については、可能なかぎり、民間人の生の声をすくい上げようとしている。限られた紙幅のなかで、聞き書きの引用はいくつもある。権力の中心の動きより、日々の暮らしについての言及や、名もない民衆の感想のほうが、歴史の動きを生き生きと伝えている。

時代区分の問題を想起させたのは、意外な収穫であろう。『日本の200年』という書名はおそらく訳者がつけたものだが、サブタイトル「徳川時代から現代まで」が示すように、内容は十八世紀から二十一世紀の初頭まで及ぶ。しかし、原書名を直訳すると『日本の近代史』。ブックデザインも明治以降の文化を思わせるものだ。カバー画には斎藤桂三のビクターハーモニカ楽譜「東京行進曲」表紙装画が用いられており、いかにも近代らしい、モダンな装頓だ。

近代について考えるとき、明治維新ではなく、幕府の時代を起点とするのは意外と大事なことなのかもしれない。社会文化の連続性は政治的な出来事によって、簡単に裁断できるものではない。むろん、このような布置にはほんらい別の狙いがある。アメリカの大学生を読者として想定しているから、徳川時代は近代日本を知る上で不可欠な基礎となる。その点を考えると、ほんらい必ずしも問題提起の意味合いを持たないのかもしれない。ただ、この叙述上の工夫は結果として、これまでの歴史区分法に疑問を呈した。少なくとも文化の連続性について固定観念を打ち破ることができるであろう。

明治以降の近代化について、一つの根深い誤解がある。明治初期の翻訳によって西洋思想が紹介され、そうした新しい思想に導かれて、文明モデルの転換が行われた。だが、それは所詮、現代人による都合のよい事後解釈にすぎない。実際はその逆の場合もある。欧米思想が近代化の推進に大きく役立ったことはまちがいない。しかし、そのかなりの部分は当初、従来の思想を装ってようやく受け入れられた。徳川時代と明治時代とは思想的にまったく分断されたのではない。両者はむしろ地続きになっている。マインドの変化は長い時間をかけてようやく成し遂げられた。本書を読んで、そのことが今一度思い起こされた。

社会の大きな変化は身近な視点からとらえられているから、歴史書にありがちな硬さはまったくない。高度成長期の生活についてはテレビ番組『サザエさん』が取り上げられ、ポスト戦後の社会変化については「援助交際」が紹介されているところに、その柔軟さの一端がうかがえる。

【この書評が収録されている書籍】
本に寄り添う Cho Kyo's Book Reviews 1998-2010 / 張 競
本に寄り添う Cho Kyo's Book Reviews 1998-2010
  • 著者:張 競
  • 出版社:ピラールプレス
  • 装丁:単行本(408ページ)
  • 発売日:2011-05-28
  • ISBN-10:4861940249
  • ISBN-13:978-4861940248
内容紹介:
読み巧者の中国人比較文学者が、13年の間に書いた書評を集大成。中国関係の本はもとより、さまざまな分野の本を紹介・批評した、世界をもっと広げるための"知"の読書案内。

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日本の200年〈上〉―徳川時代から現代まで / アンドルー・ゴードン
日本の200年〈上〉―徳川時代から現代まで
  • 著者:アンドルー・ゴードン
  • 翻訳:森谷 文昭
  • 出版社:みすず書房
  • 装丁:単行本(399ページ)
  • 発売日:2006-10-00
  • ISBN-10:4622072467
  • ISBN-13:978-4622072461
内容紹介:
「こういう日本史を待っていた」世界のどの国の人が読んでも"共通に理解できる"新しい近現代日本史が、ここに誕生した。英語版につづいて中国・韓国・スペイン語版も続々刊行。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2006年12月3日

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