書評
『黄色い雨』(河出書房新社)
日本の現代文学から世界文学、エンターテインメント全般まで面白ければ何でも読む自分は、相当な雑読系(ⓒ坪内祐三)だと思っているわけですが、ソニー・マガジンズという出版社も節操ありませんよね。ヴィレッジブックス(文庫)でミステリーやSF、ロマンス小説をフォローしている一方、単行本ではマーク・Z・ダニエレブスキーの『紙葉の家』というスリップストリーム文学の極北みたいな小説を出し、かと思えばサンマーク出版あたりから出てもおかしくないような自己啓発本まで出版して、まさに無節操。
最近もたまげてしまったんですの。南米文学最良の紹介者・木村榮一が訳した、フリオ・リャマサーレスの『黄色い雨』。帯の推薦文は小説メキキスト・柴田元幸。早速手に取ったのは言うまでもありません。〈彼らがソブレプエルトの峠に着く頃には、たぶん日が暮れはじめているだろう〉という推量体の一文から始まる、散文詩のような文章を目にしてうっとり。で、「新潮社だか白水社だか知らないけど、またいい本を訳してくれて」と版元を確認してみたら……。偉い、ソニマガは偉いっ! というのも、スペイン本国での評価は高くても日本では未知の作家によるこの作品は、一見地味な小説だからです。
勘のいい読者なら、「だろう」「だろう」と畳みかける不穏な文章が続く冒頭部で感づくのだし、また早々に明かされもするのですが、本書の語り手は死者です。過疎化が進み、村人が一人また一人と家を捨てていった末に、妻と二人残された〈私〉。その妻も精神を失調させていき、やがて首をくくって死んでしまいます。孤独な〈私〉のそばにいるのは、雌犬ただ一匹。辛気くさい? 辛気くさいです、大いに辛気くさい物語です。でも、陰鬱なトーンながらも一文一文練りに練られた、読み手の胸をシンとさせる文章が、ページを繰る指を止めさせません。すると、ちょうど真ん中あたり、毒蛇に咬まれた〈私〉が生死の境をさまようシーンに至ります。そこから、この物語は本格的に“死者の書”と化していくのです。高熱にうなされる語り手をじっと見つめている妻。台所の長椅子に坐っている母親。火を囲むように車座になっている、この家で亡くなった一族の者たち。戦争に従軍して行方不明になった息子。たった四歳の時に病気で苦しみ抜いた末に死んだ娘。大方の亡霊は無害でおとなしいのですが、なかには邪悪な亡霊も現れ、語り手を怯えさせます。
秋になると、村とそこを流れる川を真っ黄色に染め上げるポプラの落ち葉。タイトルにもなっているこの〈黄色い雨〉は時間そして死のメタファーです。昨日と今日の境目がおぼろになっていくほど変化のない、独りぼっちの生活に疲弊していく〈私〉はある日、唯一の仲間であった雌犬にも黄色い影が落ちているのに気づきます。そして――。
〈時々人は、自分はもうすべてを忘れた、貪欲な錆と歳月のほこりの手にすべてをゆだねた。以前のことは跡形もなく失われたと考えることがある。しかし、ある物音を聞いたり、何かの匂いを嗅いだり、思ってもみないものが突然手に触れたりすると、時間が一気に溢れ出して、情け容赦なくわれわれに襲いかかり、稲妻のような激しい閃光で忘れたはずの記憶を照らし出す〉こういう文章に共感する方は、ぜひ読んでみて下さい。かつて失われたものたちへの深い哀惜の念と、自分もその一員となる“いつか”に向けての怖れと安心。これは死者と生者双方のために書かれた、たとえようもなく美しいレクイエムなのです。
ソニー・マガジンズがさらに雑食の範囲を広げた無節操ぶりにも拍手拍手拍手!
【単行本】
【この書評が収録されている書籍】
最近もたまげてしまったんですの。南米文学最良の紹介者・木村榮一が訳した、フリオ・リャマサーレスの『黄色い雨』。帯の推薦文は小説メキキスト・柴田元幸。早速手に取ったのは言うまでもありません。〈彼らがソブレプエルトの峠に着く頃には、たぶん日が暮れはじめているだろう〉という推量体の一文から始まる、散文詩のような文章を目にしてうっとり。で、「新潮社だか白水社だか知らないけど、またいい本を訳してくれて」と版元を確認してみたら……。偉い、ソニマガは偉いっ! というのも、スペイン本国での評価は高くても日本では未知の作家によるこの作品は、一見地味な小説だからです。
勘のいい読者なら、「だろう」「だろう」と畳みかける不穏な文章が続く冒頭部で感づくのだし、また早々に明かされもするのですが、本書の語り手は死者です。過疎化が進み、村人が一人また一人と家を捨てていった末に、妻と二人残された〈私〉。その妻も精神を失調させていき、やがて首をくくって死んでしまいます。孤独な〈私〉のそばにいるのは、雌犬ただ一匹。辛気くさい? 辛気くさいです、大いに辛気くさい物語です。でも、陰鬱なトーンながらも一文一文練りに練られた、読み手の胸をシンとさせる文章が、ページを繰る指を止めさせません。すると、ちょうど真ん中あたり、毒蛇に咬まれた〈私〉が生死の境をさまようシーンに至ります。そこから、この物語は本格的に“死者の書”と化していくのです。高熱にうなされる語り手をじっと見つめている妻。台所の長椅子に坐っている母親。火を囲むように車座になっている、この家で亡くなった一族の者たち。戦争に従軍して行方不明になった息子。たった四歳の時に病気で苦しみ抜いた末に死んだ娘。大方の亡霊は無害でおとなしいのですが、なかには邪悪な亡霊も現れ、語り手を怯えさせます。
秋になると、村とそこを流れる川を真っ黄色に染め上げるポプラの落ち葉。タイトルにもなっているこの〈黄色い雨〉は時間そして死のメタファーです。昨日と今日の境目がおぼろになっていくほど変化のない、独りぼっちの生活に疲弊していく〈私〉はある日、唯一の仲間であった雌犬にも黄色い影が落ちているのに気づきます。そして――。
〈時々人は、自分はもうすべてを忘れた、貪欲な錆と歳月のほこりの手にすべてをゆだねた。以前のことは跡形もなく失われたと考えることがある。しかし、ある物音を聞いたり、何かの匂いを嗅いだり、思ってもみないものが突然手に触れたりすると、時間が一気に溢れ出して、情け容赦なくわれわれに襲いかかり、稲妻のような激しい閃光で忘れたはずの記憶を照らし出す〉こういう文章に共感する方は、ぜひ読んでみて下さい。かつて失われたものたちへの深い哀惜の念と、自分もその一員となる“いつか”に向けての怖れと安心。これは死者と生者双方のために書かれた、たとえようもなく美しいレクイエムなのです。
ソニー・マガジンズがさらに雑食の範囲を広げた無節操ぶりにも拍手拍手拍手!
【単行本】
【この書評が収録されている書籍】
ALL REVIEWSをフォローする









































