議論の前提を作る
教育そのものを広く議論することにはいつも困難がつきまとう。古典教育の場合で言えば、それはともすれば理系対文系の要不要の代理戦争にもなる。
国民を育てる基本的な教材として君臨する古典をいかに扱うのかという思想の問題にも関わる。
私自身も、高校生の時は、品詞分解と現代語訳に終始する古典学習のあり方に大いに不満を募らせていた一人だった。
古典学習はいつからこんなにつまらないものになったのだろう?
もともとそうなのか?
そんな問いが研究の発端である。
でも、実際に歴史研究を進めるうちに、意義論の前提となる土台そのものについての検討が思った以上に行われていないことが分かってきた。
そのため、小さな部品(国語読本や教育課程)の点検を一から行うこととなった。
古典学習の改善に向けて
ただ、前提を明らかにしようと作業を進めている間にも、教育活動は行われ、毎年、多くの古典嫌いの学習者が生まれているようである。自分が直接見聞きする授業でそのような授業ばかりという印象はないが、調査の数字からは「文法・語法ばかり」「暗記ばかり」という古典の授業に対する不満がはっきりとしている(安野2017)。これは現場教員を批判してよしということにはならない。そもそも古典学習を充実したものにすることは容易ではない。古典を読むことそのものが探究活動として成立し、学習者が主語となる学習活動を組織するための方法論もモデルも、それを実現する教員養成の環境整備のどれもが十分とは言えない。
本書を書く一方で、上記のような状況を改善するべく教材研究や単元提案、シンポジウムの企画等も行ってきた。今後は、現状を改善する具体的な提案や実践を積み重ねていくことになるだろう。そして、その作業のなかで改めて古典学習の価値について批判的・批評的に議論を積み重ねていきたい。とくに、その時々の学習の場で、学習者が価値や意味を感じとることができたか、教師がそういった授業を仕掛けられたかどうかを起点におき、議論することができる場と状況を作っていきたいと思っている。
古典学習を生き生きとしたものにするために
私の今の興味というか進めたいことは、古典学習を生き生きとしたものとすることができる、探究活動として成立させることができる教員を育て、あるいは、そういった授業を目指す先生方をフォローする状況を作ることである。そのためには、国語科教育学、国文学、漢文学、日本語学を始めとした様々な研究者、そして現場の国語科教育に関わる先生方が、ともに建設的な議論を行う場の設定が必要だと思っている。そしてそういった気運は高まっているように感じている。また、今回の学習指導要領改訂を受けて、高校現場では、今年度から「言語文化」の教科書が使用されている。教科書の内容は手引きなどを中心に確実に改善・充実している。教科書に収められている教材そのものの検討、手引きの検討、その前提となる学習指導要領の検討、さらには次に続く「古典探究」教科書の検討など具体的に議論するための対象(マテリアル)は揃っているのである。
古典の単元をいかに作るのか。そのヒントの一つとして指導事項がある。これが古典単元を作るための唯一の解というわけではないが、まずはそこから古典学習を考えてみてもよいのである。学習指導要領はバイブルではないが、十分に利用・活用するべきツールでもある。
古典学習の指導事項は、古典を読む学習プロセスに合わせて位置付けられていて、指導事項に沿って単元構想をすればひとまずのたたき台を作ることができる。この考え方については、本書内の4つのコラムにも書いている。こちらもぜひお読みいただきたい。古典学習の価値を議論するためにも、学習指導要領を読み解き、批評することが必要なのだ。
これらのことについても議論する場を作り、古典学習に興味を寄せる方々と価値ある議論を積み重ねていきたいと思っている。
[参考文献]
安野葵(2017)「大学生の古典力調査報告Ⅷ 平成27年度横浜国立大学教育人間科学部学校教育課程1年次生の古典に関する関心度調査」『横浜国大国語教育研究』No.42
[書き手]菊野雅之(きくの・まさゆき)
1978年、鹿児島県生まれ。1999年、鹿児島大学理学部物理科学科中退。2004年、横浜国立大学教育人間科学部学校教育課程国語専修卒業。2006年、同大学院教育学研究科言語文化系教育専攻修了。2013年、早稲田大学大学院教育学研究科博士後期課程国語科教育専攻単位取得満期退学。早稲田大学教育学部助手、国立教育政策研究所学力調査専門職などを経て、2014年より北海道教育大学釧路校講師。2022年現在、同大学准教授。博士(教育学)。