書評

『化学の結婚――付・薔薇十字基本文書〈普及版〉』(紀伊國屋書店)

  • 2017/07/28
化学の結婚――付・薔薇十字基本文書〈普及版〉 / ヨーハン・V.アンドレーエ
化学の結婚――付・薔薇十字基本文書〈普及版〉
  • 著者:ヨーハン・V.アンドレーエ
  • 翻訳:種村季弘
  • 出版社:紀伊國屋書店
  • 装丁:単行本(356ページ)
  • 発売日:2002-12-31
  • ISBN-10:4314009314
  • ISBN-13:978-4314009317
内容紹介:
ヨーロッパ精神史に深い刻印を残した文学的・思想的事件…薔薇十字四大文書を原典から完全翻訳。
先に邦訳されたウンベルト・エーコの『フーコーの振り子』をお読みになった方は、各章のはじめにヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエの『化学の結婚』の文章が銘のようにしばしば引用されていたことに気付かれただろう。テンプル騎士団の伝説を核として西洋神秘主義の諸思想のパスティッシュの観を呈するこの小説において、アンドレーエの著作から引かれた言葉は、まぎれもなくこの記号の迷宮を構成する重要な役割を担っていた。

そのアンドレーエの著作が、ついに全訳された。『化学の結婚』ばかりではない。同じアンドレーエが書いたと想定される『薔薇十字の名声』、『薔薇十字の信条告白』、そして、『全世界の普遍的かつ総体的改革』も一緒にである。要するに、薔薇十字に関する基本文書すべてである。刊行時期は、一六一四年から一六年までの三年間。著者二十歳代の折だが、執筆は十代の時らしい。

「薔薇十字」とは、しかしいったいなんなのか。それを説明するのは容易ではない。そもそも著者アンドレーエが、それを彼一流のミスティフィカシオンの霧に包むかのように呈示しているからである。彼はそれをクリスティアン・ローゼンクロイツなる人物の創始した友愛結社として記述している。この人物は、一四八四年に百六歳の高齢でみまかるが、その墓碑銘には「余ハ百二十年後ニ公開サレルデアロウ」と記されていたという。『薔薇十字の名声』が公刊された一六一四年は、予言された復活の年(一六〇四年)から十年遅れになるが、この間にすでにローゼンクロイツは復活し、薔薇十字団は公開活動の時期に入ったと見ることもできるわけである。実際、エーコの小説においては、この百二十年という数字に特別な意味が付与されていた。『化学の結婚』は、そのローゼンクロイツ自身が一四五九年に書いたものとして、また『名声』と『信条告白』と『改革』は、薔薇十字団の目的と沿革を説明する匿名の文書として世に出たものである。

これらの真の作者がアンドレーエと目されているわけだが、ローゼンクロイツの名が薔薇(ローゼ)と十字(クロイツ)の結合であり、しかもアンドレーエ家の紋章も薔薇と十字であることを知れば、こうした作為の背景も垣間見えてこよう。薔薇十字は、アンドレーエというバロック期の早熟の異才がつくり上げた思弁の世界だったのである。とはいえ、これはたんなる思弁、たんなる個人的夢想だったのではない。マルティン・ルターの家紋も薔薇と十字であり、またパラケルススの家紋にも薔薇が用いられているように、それには少なくともルター主義と錬金術の伝統が関与していたと見なければならない。これは、宗教改革を背景とした特殊な思想運動だったのだ。訳者の種村季弘氏の委細にわたる「解説」のなかの文章を引いておこう。

錬金術的=ヘルメス主義的傾向、キリスト教的=錬金術的傾向、終末論的=千年至福説的傾向、神秘主義的=熱狂者的傾向、後期人文主義的=汎知学的傾向、それらがそれぞれに孤立しながら、あるまとまりのない、とはいえそれなりの強度のある時代精神を形作っていた。惜しむらくは、それをひとくくりに総括する名だけがなかった。それが『名声』の出現によって一挙に『薔薇十字』の名称がはっきりと定着し、相互の脈絡が見えてきたのである。

いずれにせよ、薔薇十字特有の魅力と難解さは、『化学の結婚』を一読してみれば直ちに了解されるところであろう。王と王妃の結婚式への招待状が処女天使によって手わたされるところから始まる七日七夜のこの異様な物語は、錬金術の諸作業と重ね合わされたらしい徹底したアレゴリー文学である。

読者は、謎めいた物語の進行に半ばあきれながら、これをこなれた日本語に移しえた訳者の努力につくづく感心するほかはないにちがいない。

【この書評が収録されている書籍】
書物のエロティックス / 谷川 渥
書物のエロティックス
  • 著者:谷川 渥
  • 出版社:右文書院
  • 装丁:ペーパーバック(318ページ)
  • 発売日:2014-04-00
  • ISBN-10:4842107588
  • ISBN-13:978-4842107585
内容紹介:
1 エロスとタナトス
2 実存・狂気・肉体
3 マニエリスム・バロック問題
4 澁澤龍彦・種村季弘の宇宙
5 ダダ・シュルレアリスム
6 終わりをめぐる断章

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化学の結婚――付・薔薇十字基本文書〈普及版〉 / ヨーハン・V.アンドレーエ
化学の結婚――付・薔薇十字基本文書〈普及版〉
  • 著者:ヨーハン・V.アンドレーエ
  • 翻訳:種村季弘
  • 出版社:紀伊國屋書店
  • 装丁:単行本(356ページ)
  • 発売日:2002-12-31
  • ISBN-10:4314009314
  • ISBN-13:978-4314009317
内容紹介:
ヨーロッパ精神史に深い刻印を残した文学的・思想的事件…薔薇十字四大文書を原典から完全翻訳。

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初出メディア

マリ・クレール

マリ・クレール 1993年9月

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