奈良盆地に王権、分水嶺から考察
日本列島での国家誕生にはロマンがある。3世紀の「邪馬台国」や記録が少ない「空白の4世紀」、5世紀の巨大古墳は歴史ファンに人気だ。近年、この時代の考古学が進んでいる。最新研究を紹介したい。本書は「水上交通」に着目、列島の国家形成を論じた意欲作だ。列島統一の謎をさぐるには、当時の交通事情の解明が必要だ。日本は地球上でも特異な場所にある。人類の人口重心からみれば最東端の森林の離島だ。農耕も製鉄も牛馬飼育も開始が遅い。3世紀の列島はナイナイづくしだ。牛馬の一般使用・車輪・帆船・製鉄の四つがなかった。鉄は遠く朝鮮半島から運び加熱変形だけできるローテクの島。鉄器なしでは森林の島は水田にできない。だから列島では首長や王の力が強くなった。人力で漕ぐ長大な舟でもって彼らが朝鮮半島から鉄を輸入し配分するからだ。そのせいか倭国の王墓は半島よりも巨大で古墳の大きさで上下関係を明示する島になった。ところが、この漕舟は転覆しやすい。日本史家には常識だが、船の難所が二か所あった。熊野灘と房総半島沖だ。ここだけは陸路と河川湖沼の内水路を使って分水嶺を越える。熊野灘を迂回するには紀伊半島―能登半島線の分水嶺を、房総沖を避けるには房総半島―日光線の分水嶺を、どこかで越える必要があった。分水嶺を越える場所は荷物を積み替える交通の要衝で、大集落や大古墳が立地すると著者はいう。
なぜ奈良盆地東南隅にヤマト王権が生まれたのか。本書はこれを交通から説明する。朝鮮半島―北部九州―瀬戸内海―大阪湾―大和川―三輪山山麓―伊賀―伊勢―「巨大な世界、東日本」とつながる鉄器等の移送ルートが分水嶺に迫る地点、それが奈良盆地東南隅(三輪山山麓)だ。たしかにワカタケル大王(雄略天皇)も自身の泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)を、その地に置いている。東国とつながる三輪山山麓に居て、鉄加工の上手な吉備(岡山)と結ぶ。このスタンスがとれたヤマトこそが統一の主人公になれたと評者も考える。利根川流域に関東の巨大古墳が集中する理由も、分水嶺で説明できそうである。三浦半島から先の房総半島先端は、古墳時代の航海技術では危険域だ。記紀神話で、ヤマトタケルはここを越える時、妻が荒海に投身して犠牲となり、ようやく通過できている。漕舟に頼った3~4世紀の水上交通線は弱かった。
ところが、5世紀になると、馬の利用が進んだ。長野県の伊那谷などで馬産がなされ、陸上輸送力が格段に上がった。ヤマトは巨大な東国へのアクセスがよく馬と人が入手しやすい。その点、吉備や九州より有利だ。東国の王たちは、ヤマトの大王とつながり馬を提供するかわりに西の鉄器をもらう。だからヤマトと東国は決して離れない。日本は東西に分離しなかった。これは評者の考えだが、馬時代の大王は東国を掌握すれば、奈良盆地にいるよりも、朝鮮半島に近い大阪の河内にいたほうがよい。半島の鉄権益維持のため、半島諸国と戦うからだ。戦うには東国の馬と兵も必要だ。ヤマト王権は東国との密な関係を一層深めた。本書からは「列島の東西1000㎞以上にも達する組織化が実現され」、列島の統一が進んだ背景がみえる。