詩と小説、重なり変位しあう関係性
小説は詩に還りたがっているのではないか。ここ数年、そんなことを思うことがある。定型詩の形で物語を書いていた西洋で、散文が文学の中心を担うようになるのは、十七、十八世紀に「小説」が急速に発達してからだ。定型の束縛からの解放。わたしたちの生活言語に最も近い言葉でその生を模倣しようとする小説は、ひとの気持ちを抒むのに向いており、個人が尊重される近現代の流れに則していた。一方、詩も押韻と韻律に縛られない散文詩が発展する。いま小説は(より自由になった)詩に立ち返り、そこに改めて豊かな鉱脈を求めているように見える。英米では暫くヴァース・ノベルという詩と小説が融合した文芸が盛んだし、国内外で詩人の書く小説が高く評価されている。
前回この欄でとりあげた韓国のぺ・スアの詩的な小説『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』もそうだったが、言葉が散文言語の理路で動いていない作品も多い。
『テーゲベックのきれいな香り』もそうである。何が書かれているか羅列してもあまり意味はないが、亡くした愛犬パッシュのこと、祖母のこと、祖母が岡本梅林の梅の香りを「きれいな香り」と表現したこと、事故死とされるが自死したらしい友人の「R、あるいはL」のこと……。テーゲベックという菓子の蓋を開けるとプルーストよろしく思い出が甦ってくる。
立っていることもままならない揺れ。それのことを語り手は「あれ」としか呼ばない。「あれ、以外での呼称をあてがえば、わたしの記憶ではなく、平準化されたわたしたちの共通の通貨として、手放されてしまう」からだ。
また、語り手は「詩とは、異界に接続する扉だ。時間も空間も自由に往還する」とも言う。だったら、小説とは何か。それを突き詰めたのが本書でもある。詩とは何かを知るためには、「詩から離れて観るしかないと感じた」と語り手は言い、また違う章では、子どもの頃の彼が蟻に接着剤を垂らして殺めている。「生きるということを識るために、反意語である死によって確かめたかった」と言うのだ。つまらない方程式で解読すれば、詩とは小説の彼岸に立つ対義語ということになるだろうか。
とはいえ、語り手は、小説は書くものではなく、読むものだとも言うのだ。「読む行為そのものが小説」であり、「詩とはその読む行為のなかで、瞬間を捉える表現」なのではないか、と。一つの作品のなかに、それどころか、一つの文章のなかに、詩と小説が重なりあい変位しあい併存していても不思議はないだろう。
語り手がピエール・ポウルなる「自称・シュルレアリスム詩人」の掌編を訳すくだりが面白い。語り手いわく、ピエールは詩も小説も下手くそだった。「それでも小説を書いている、書こうとしている人間にはない魅力があった」と。かたや、「ほとんどの作家になりたがっている者の小説」は小説と呼べるものではなく、「伝えたいことがそんなにあるなら、伝書鳩にでも知らせたらいい」と言う。
正義を掲げたメッセンジャーとして疾駆する小説を横目に、やはり一部の小説は自由と真理を求めて詩に還りたがっているのかもしれない。詩の何たるかは、本書に何が書いてあるかではなく、言葉がどう振る舞っているかを見ればわかる。