「表面しかない心」情報化社会の常識?
本書を読んで、ルネサンス期の人たちが物理学の世界像を知った時に感じたかもしれない思いを、あらためて想像することになった。教会という組織があり、その信条が世間を統制している。そこに物質科学が入ってきて、平らだと思っていた地面は球形になり、安定していたはずの大地は動き回ることになった。とはいうものの日常生活にさしたる違いはない。「心には表面しかない」という著者の考え方は、まことに時宜を得ている。情報化した社会のほうがこういう考え方を呼び寄せたのかもしれない。世界中どこでも、空港に行けば、私の顔を識別するのは人ではない。カメラの方を向けばいいのである。入国するのは、とりあえず私です。写真と対照してカメラはそうだと言い、入国を許可する。私の「中身」なんか、一切気にしていない。存在するのは、まさに表面のみである。
本書の実質的な主題は、意識である。ただし大上段にふりかぶって、意識が主題なのだと定めると、脳科学から哲学や人文科学まで、あらゆる学問領域を走り回らなければならない。そんなことをすると、なにがなんだか、自分でもわからなくなるのがオチであろう。
著者はそんなことはしない。いわば意識の素過程に考察を絞り込む。著者は一刀両断、心の奥底なんかない、という。その時々の表面だけだ、と。著者の考え方の背景にあるのは、明らかに計算機で、機械が意識を持つ、あるいは機械に意識を持たせるとしたら、「自分はいまなぜこの計算をしているのか」といったような高級な自意識が初めに出てくるはずがない。意識のはじまりはもっと初歩的なところにあるはずである。
だから本書で数多く例示されるのは視覚系である。視覚系はヒトできわめてよく発達した感覚系であり、非常に詳しく調べられている。紙の上に白黒のランダムな模様が散らばっている図をどこかで見た人は多いと思う。ある瞬間に気がついてみると、あるいは教えられてみると、それがダルメシアン犬の写真なのである。いったんそう見えると、以後もっぱらそう見えるようになる。紙の上の一見ランダムな白黒模様がイヌという意味と結びつくと、乱雑な模様がイヌとその背景という収まるところに収まってしまう。
著者は、これこそが意識の素過程だ、と明言するわけではない。でも知覚入力を意味と結びつけるところがかなめだと主張している。そう読める。この機能は、英語では以前から気づき(アウェアネス)と表現されてきた。現在では、意識(コンシャスネス)という表現が普通であろう。
続いて錯視図形や両義図形を例に挙げて、そうした解釈の曖昧さ、すかすかさ、あるいは矛盾を指摘して見せる。大きな結論としては「心には表面しかない」(ザ・マインド・イズ・フラット)という原題を導く。深遠な心の奥底とか、無意識の過程なんてものはない、それは心が得意とする「だまし」だというのである。ちょうど物質の世界で、自然科学が教会の教義に対して演じたのと似たようなことを、心の科学で著者は主張する。「認知科学や脳科学のここ数十年は、本書の結論へ引き寄せられると同時に必死に抗うことに費やされた」。著者に限らず、私自身もこういう考え方でいいのかと、何度か自問した。確かにそれでとくに問題は感じない。難問を解く際に、心の中で無意識の過程が働いていて、とりあえず解けなかったとしても、やがてそれが正解を生む。そんなことはない、と著者は言う。無意識の機構が存在するという証拠はないからである。
言われてみればその通りで、われわれは何か不思議な機構、神秘的な存在が欲しいのである。それを世界に持ち込めば宗教になるだろうし、脳科学ではたとえば無意識になる。一種のゴミタメだが、意地の悪いことに科学者はその種のゴミタメの存在を許さない。
かつて本欄で紹介したリサ・フェルドマン・バレット著『情動はこうしてつくられる』(紀伊國屋書店、2019年)も、基本的には本書と同様の趣旨になっている。喜怒哀楽も固定した機能ではなく、状況に応じてその都度「創られる」のである。この種の基本的な考え方の修正には、社会的には時間がかかるであろうが、やがて新しい常識になるに違いない。
好むと好まざるとにかかわらず、本書のような思考は、情報化社会における人々の行動様式を説明するのにも、適合性が高いと思われる。評者自身も年齢とともに、著者のような見方に傾くようになった。いまさら大伽藍(がらん)のような立派な学問体系に挑戦することはできないし、万事が「とりあえず」や「その都度」ということになりがちだから、当然であろう。平和で安定した社会を築いていくと、人々の考えはより表層的で、自由でバラバラになっていくのかもしれない。それが悪いこととは、かならずしも思えない。