「いのちの声に耳傾けること」
稿を起こそうとして、些(いささ)かのたじろぎを覚える。父君が大正十二年、北海道中部奈井江(ないえ)で始められた医院は、ほぼ一世紀の歴史となるが、昭和三十四年に三十三歳で引き継いで、六十五年を超える九十七歳の今日まで、医療の現場に立ち続けた著者が、折に触れて書き続けた百五十項を超えるエセーの集合体が本書である。病に、そして迎える死に近づく患者と、接する医師としての著者との間に生まれる様々なエピソードは、どれも読者の心に届く感興に満ち溢れているが、では、何処をどのように取り上げるのが、書評として適切か。これが難問に違いなく、たじろぎの原因でもある。個々の魂を打つ言葉の数々は、本書を直接読んで味わって戴くことにしよう。一つ、副題に気になる文字がある。「医療とは何か」の総合タイトルに、一見馴染まないように映る「音」。これは何だろう。探し当てて読んでみると、なるほど。著者は「いのちの音」という表現を使われるが、医師たるもの、それを手放しては資格を失うかに、TVドラマで出てくる医師は、判で捺したように首から聴診器をぶら下げているが、まさしく聴診というのは、身体の「音」を聴くことに違いない。言われてみれば、恂(まこと)にその通りであった。余計な事かもしれないが、昔は聴診器を当てる前後に、医師は必ず指を使った「打診」もしたが、最近は患者たる評子、一向にされた覚えがない。CTだ、MRIだ、先進器械での検査が先行するからだろうか。
心音、呼吸音、血流の音、エコー検査の超音波の音等々。身体内では、こうした様々な音が、交響曲のような音楽を奏でている。そこに「乱れ」が生じるのが病いであって、それが患者の苦痛の「訴え」や不安に由来する声の乱れにまで、つまりここでも「音」として表現される事象へと繋がる。これが著者の「音」という文字に託された思いのようだ。
「医療とは、病を患う人のいのちの声そして音に耳を傾けることである」という著者の声を聴いてみると、「音」が医療のテーマと馴染まないなどと思った自分が恥ずかしくなる。反面、現代の医療現場で、患者の前に座った医師の視線はコンピュータ画面にくぎ付けで、只管(ひたすら)「観る」ことに専念し、患者の「音」に耳を拓いて「聴いて」くれてはいないような思いが、抜けないのも事実かと、つい愚痴がでてしまう。付け加えておけば、著者は、言わば「普通の」意味での「音」の世界、つまり音楽にも思いがおありのようで、さり気なく言及される演奏家や作曲家の名前は、並々ならぬ共感をその世界にお持ちのようでもある。
もう一つ、大切なキーワードは、これも副題にある「他者性」だろうか。「個」の自立ということが近代西欧における人間像にあまりにも強く刻印された結果として、「個」と「個」との関係には視線が行っても、「自己の中の他者」には眼が届き難くなっていて、西欧世界でも反省も多く見られるが、著者の眼差しは、文字通り、医療にまつわるぎりぎりの場面での、否応ない自己の他者性へと赴く。それも、読者の心を攫(つか)む本書の特色の一つと言えるだろう。
付け加えて書くとすれば、本書の記述のさり気なさが嬉しい。俳句が引かれ、信仰の言葉も引かれるが、どれも、押しつけがましさの毫(ごう)も感じられない姿勢を有難く受け取った。