少し遅れてくる祈りの言葉の重み
「三十余年」のあいだに発表された百九十篇ほどの散文がならぶ、伽藍のような大著である。全体は四章からなり、編年ではなく主題が互いに近接するよう構成されていて、重層的な相互の響きあいが美しい。最も大きな部分を占めるのは、聖フランシスコ修道会の機関誌『聖母の騎士』に二〇〇八年七月から二〇一八年九月まで、月に一度書き継がれた短い散文を収める第三章。あとがきには、まずここから目を通していただきたいと記されているのだが、その勧めに従わず、冒頭から順に読んでいっても、著者の来歴と現在地は十分に把握できる。
扱われる主題は多岐にわたる。少年時代に体験した神隠しのような思い出、大阪大空襲とそれにつづく疎開先の徳島市での二度目の空襲の記憶、編集者時代(冬樹社で『坂口安吾全集』を担当した)の労苦、クラシック音楽とオーディオへの愛。家族、闘病、俳句、書道に老い、そして信仰。これらが波のように繰り返しあらわれるのだが、行間に差し込む光の角度が異なるため、おなじ素材であっても、影の濃淡や輪郭に微妙な変奏が生まれている。
著者はカトリックの私立学校を経て、一九五六年に早稲田大学のロシア文学科に進んだ頃から聖書を深く読みはじめ、プロテスタントの教会を訪ね歩いた。それでいて、カトリックに入信したのは三十五歳のときだったという。この間の道がまっすぐではなく平坦でもなかっただろうことは、断片的に語られている事柄から察せられる。
信仰と日々を成り立たせ、書くことを支え、落ち込んだ自分を励まし、立ち直らせるのは、聖書を柱とした、他者の言葉たちである。本について語ることは、結局、それを受け入れ、消化してきた自身を語ることに等しいのだ。本を手にしていた過去の、それを振り返っている現在の、いまこのときを過去として思い出すだろう未来の自分について思考を重ねるとき、言葉の時間はかならずしも直進しない。後戻りし、これから読まれる言葉の方角を指し示したうえで、現在に立ち返らせる。
たとえば高濱虚子の「蝸牛の移り行く間の一仕事」を引いて、「宇宙百三十七億年の歴史のなかで、カタツムリが懸命に這う努力、生きる営みが、そのまま、宇宙の気の遠くなるような長さと同等、等質の時間、歴史となっている」と著者は言う。日常の小さな情景のなかに潜むある種の抜き差しならなさに対して、畏れと敬意を抱きうるかどうか。「永遠」を自分のものにできるかどうか。
ウルグアイ生まれのフランスの詩人、ジュール・シュペルヴィエルの詩を紹介したあと、著者は「文章でもって<永遠>を裁ち落としたい」と記している。切り取るのではなく裁ち落とすという表現を選ぶ姿勢には、どこか厳しい言葉の修道僧の顔が浮かぶのだが、その厳しさは、まったくべつの分野からも掘り起こされる。
能楽シテ方の先代喜多六平太によると、能の生命は「何の張合ももたれないようなところに、一所懸命力瘤(ちからこぶ)を入れてる」からこそ保たれるという。手を抜いたとたん、言葉も祈りも重みを失うのだ。これは作家としてだけでなく、人として生きることのすべての位相にあてはまる箴言だろう。
ただし、力瘤は正しい脱力の結果でもある。いまの世に欠けているのは、「超音速機の爆音のよう」に、「少し遅れて轟き、返ってくる」言葉と祈りだ。効率や見返りを求める地平には決して届かない、この少し遅れてくる祈りの言葉が、本書のいたるところに響いている。