書評

『ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版』(白揚社)

  • 2017/08/01
ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版 / ダグラス・R. ホフスタッター
ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版
  • 著者:ダグラス・R. ホフスタッター
  • 翻訳:野崎 昭弘,柳瀬 尚紀,はやし はじめ
  • 出版社:白揚社
  • 装丁:単行本(763ページ)
  • 発売日:2005-10-01
  • ISBN-10:4826901259
  • ISBN-13:978-4826901253
内容紹介:
世界を揺るがした衝撃の超ベストセラーは「本当は何を書いた本なのか?」多くの読者を悩ませ楽しませてきた問いに、ついに著者自ら答える序文収録。20周年記念版。

さてこの難物の翻訳についてだが、幸いなことに、ゲブスタッターが編んだアンソロジー『マインズ・アイ』(一九八一)がすでにTBSブリタニカから翻訳出版されており、その中に二つの対話劇「前奏曲……」「……とフーガの蟻法」がひとつにまとめられて「前奏曲……アリとフーガ」として載っているので、この先行訳との比較をやってみよう。その書き出しの部分から――。

カメ カニさん、私たちはあなたのためにと思って、つまらないものですが、持って参ったものがあるのです。
カニ それはどうも御親切に。でもそんなことなさらなくてかまわなかったのですよ。
カメ いや、ただ気持ばかりのものですよ。アキレスさん、それをカニさんに差し上げていただけますか。
アキレス はい、もちろん。カニさんに気に入っていただけるといいんですが。――『マインズ・アイ』

ささやかなみやげを持ってきたんだがね、蟹公。
そりゃ悪いなあ。気を遣うことはなかったのに。
ぼくらの敬意のほんのおしるしさ。アキレス、きみから蟹公に渡してくれないか?
アキレス いいとも。では慎んで、蟹君。気に入ってもらえるといいんだが。――『金、銀、銅』

後者の短くキリリと締まった文章には若手棋士の将棋のような生きのよさがあるのに対して、前者の緊張感のないダラダラした文章はまるでコンピュータの指した将棋のようにのっぺらばうで、おまけにカメとカニとアキレスが書き分けられていず、二枚落の手合と言ってもよさそうなほどまったく飛角にならない。同じゲブスタッターの本でも、『マインズ・アイ』が我が国でさほど評判にならなかった原因のひとつは、どうやらその辺の「学術的」な堅苦しさにもあるように思える。一方『金、銀、銅』の場合、野崎・はやし・柳瀬の三氏は「遊び心」で環になっていて、この大部の書がとにかくすらすらとおもしろく読めてしまうのはひとえにそのせいであろう。「カイブン島出身の関取山本山」などという原文にはない勝手な創作訳をしたはやし氏の稚気には思わずニヤリとさせられたし、ゲブスタッターが最も密度が濃いと自負する対話「蟹のカノン」(この蟹は、はさみ将棋ばかりしている奴として登場する)では柳瀬氏のプロの芸にうならされた。とはいえ、感心するばかりではしかたがないので、以下に望蜀の嘆を綴っておこう。

言葉遊びも手がこむとそれにつれて翻訳の困難度が増すのは当然だが、『金、銀、銅』には超A級の大仕掛けな言葉遊びを含む対話篇がいくつかある。「洒落対法題」("Contracrostipunctus")もそのひとつで、原文にはタイポグラフィカルな仕掛けが施されている。

たとえば、次の亀の台詞を御覧いただこう.

Tortoise: 
What! It's almost midnight! I'm afraid it's my bedtime. I'd love to talk
  some more, but really I am growing quite sleepy.

一見なんの変哲もないように見えるが、実は異常なところが一箇所ある。台詞の始まりの部分は、次の行に比べて少し引っこめるのが通例なのだが、この対話篇では逆にちょうど一文字だけ出っぱっているのだ。その結果、右の例では一番最初のWが強調されて読者の目に飛びこむ。「洒落対法題」は67の台詞から成るが、各々の先頭の文字をこうして集めてやると、「HOFSTADTER'S CONTRACROSTIPUNCTUSACROSTICALLYBACKWARDSPELLS'J.S.BACH'」となる。これを区切って読みやすくすれば、

Hofstadter's Contracrostipunctus Acrostically Backward Spells 'J.S.Bach'
(=ホフスタッターの洒落対法題アクロスティックで逆に綴れば「J・S・バッハ」)

だが、この文章をもう一度アクロスティックで逆に綴ってみると、たしかにJSBACHと出てくる。つまり、この対話篇には二重逆アクロスティックとでも呼ぶべき大構想が仕組まれていたことになる。(ホフスタッターという謎の名前についてはまた後で述べる。)

アクロスティックにかけては名人芸の柳瀬氏だけに、どんなアクロバティックな妙手が飛び出るかと期待したのだが、さすがに受けはなかったらしい。ある台詞の中に小さなアクロスティックを三つ織りこみ、さらにあとがきで「ア苦労スティック」と嘆いているのは、まさに苦心の連続手とお見受けした。

同程度に無理難題は「樹獺(なまけもの)のカノン」("Sloth Canon")であろうか。ゲブスタッターが付けた概要によると、この対話篇では「樹獺は亀の言葉を否定する形で二倍にゆっくり喋る」とのことだが、これはいったいどういう意味なのか、次の引用から考えてみてほしい。

Achilles: ...You look very tired. How do you feel?
アキレス ……ずいぶん疲れてるみたいだけれど。どうしたんだい?
Tortoise: Out of gas. So long!
ガス欠さ。じゃ、お先に!
……
Achilles: ...Say, how do you cook French fries?
アキレス ……ええと、フレンチフライはどうやってこしらえるんだっけ?
Sloth: In Oil.
樹獺
: 油に入れるのさ。
Achilles: Oh, yes―I remember. I'll cut up this potato into strips an inch or two in length.
アキレス ああ、そうか――思い出した。このポテトを一インチかニインチの長さに切ってしまおう。
Sloth: So short?
樹獺 そんなに短く?

これでおわかりになっただろうか?樹獺の”In oil.”という台詞はアキレスの”Out of gas”の否定のつもり(in→put of, oil→gas)だし、さらに”So short?”は"So long!"の逆になっている(short→long, ?→!)のである。

この調子で"They hang from―"の反対が"They stand for―"だったり”He outdid himself.”の逆が"He did himself in."だったりするのだから、これは翻訳者泣かせと言えよう。

ゲブスタッターはなんとも困った手を指してくれたものである。「パイプ愛好家の教訓的思索」という対話篇には”gold lining”を施された絵なるものが登場するが、「金の裏打ち」すなわち金将を裏返して盤上に打つことは禁手であり、これはそっくりゲブ氏の一手にあてはまる。残念ながら、翻訳家は「その手は汚ない!」と叫ぶわけにはいかない。柳瀬氏もどうやら反則手に対しては投了するしかなかったようである。

(次ページに続く)
ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版 / ダグラス・R. ホフスタッター
ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版
  • 著者:ダグラス・R. ホフスタッター
  • 翻訳:野崎 昭弘,柳瀬 尚紀,はやし はじめ
  • 出版社:白揚社
  • 装丁:単行本(763ページ)
  • 発売日:2005-10-01
  • ISBN-10:4826901259
  • ISBN-13:978-4826901253
内容紹介:
世界を揺るがした衝撃の超ベストセラーは「本当は何を書いた本なのか?」多くの読者を悩ませ楽しませてきた問いに、ついに著者自ら答える序文収録。20周年記念版。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

初出メディア

翻訳の世界

翻訳の世界 1985年8月

  • 週に1度お届けする書評ダイジェスト!
  • 「新しい書評のあり方」を探すALL REVIEWSのファンクラブ
関連記事
若島 正の書評/解説/選評
ページトップへ