書評

『学生を戦地へ送るには: 田辺元「悪魔の京大講義」を読む』(新潮社)

  • 2018/02/03
学生を戦地へ送るには: 田辺元「悪魔の京大講義」を読む / 佐藤 優
学生を戦地へ送るには: 田辺元「悪魔の京大講義」を読む
  • 著者:佐藤 優
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(365ページ)
  • 発売日:2017-07-31
  • ISBN:4104752134
内容紹介:
日米開戦前夜、京大の哲学教授はいかにしてエリート学生を洗脳し、戦地へ送ったのか? 悪魔の講義の構造を解明する合宿講座全記録。

戦争イデオローグの手の内

昭和一四(一九三九)年、田辺元の京大での講義録『歴史的現実』を、佐藤優氏が逐条解説したセミナーの記録。すぐれた戦争イデオローグの恐るべき手の内が明らかになる。

田辺元は《数学を専攻し…哲学科に転じた》学者で、頭が切れる。戦火の拡(ひろ)がる中、歴史を生きる覚悟を学生に問うた。

田辺は本格派投手のように、直球をびしびし投げ込む。《過去の必然性と未来の可能性の結びつくのが永遠の現在である》《歴史は必然の自由である》。誰もが過去に縛られつつ、未来を切り開く自由があるという。ドイツ哲学を下敷きに、丹念に議論を積み上げていく。

では、歴史とはなにか。《歴史は過去にあるのではなく、現在に否、未来にあるとさえ云(い)える》。未来を切り開こうとするとき、人びとを最も強く束縛する過去は、《人類の世界に起った出来事ではなく、我々が属している種族の伝統…である》。種族とは日本人のことだ。歴史を共有する人びと(種族)として、日本人が取り出される。

個人の集まりが種族で、種族の集まりが人類である。歴史は種族ごとのもので、唯一の歴史はない。《持たざる国が実力により生存権を主張する事は持てる国からは正義に反した事といわれ》る。でも《地球上の土地が諸民族によって占有されているのは、…公平に分配された結果ではない》。では種族は、対立するしかないのか。ここで田辺元は、優れた個人に期待する。種族は閉鎖的で、個人を圧迫する。だが傑出した個人はそれにめげず、《自由・自発性を以(もっ)て全体の統一を促進・維持》する。そして《種族が…人類の立場に高まり、…個人と媒介調和せられ主体化せられたもの》が、国家だという。君が歴史の主役だよ、とエリートに囁(ささや)きかけているのだ。

《個人は種族を人類の立場に媒介するものであり、そこに個人の任務がある》《個人がなし得る所は種族の為(ため)に死ぬ事である》《我々が死に対して自由になる…というのは…死に於(おい)て生きるのであるという事を真実として体認し…死に於ける生を遂行する事に外ならない》。こうダメ押しし、講演を締めくくる。

佐藤優氏が『歴史的現実』に注目するのは、危機感からだ。歴史に学ばないなら、同じ過ちを繰り返す。戦後の日本は、アメリカに教えられた普遍的価値(自由、民主主義、人権など)に従ってきた。ポスト冷戦の時代、普遍的価値は急速に色あせた。代わって、格差や怨念(おんねん)を土壌に、種族(自分たちのグループ)さえよければよいという、右傾化の動きが強まっている。行き着くところは、戦争か暴力しかない。田辺元の囁きは、知性の装いをまとった情念の、暗いエネルギーをたたえている。こうした手口に《耐性》をつけておくことが大切だ、と。

講義ならではの質疑応答や脱線も魅力的だ。たとえば、ハルノートを受け入れていれば、対米戦争は防げたという説。中国から撤退し、満州国の承認を取り消し、日米は中国の権益を放棄し、三国同盟を有名無実化する。どれも問題ない、と言われてみればその通り。海洋国家たるべき日本が、大陸国家として行動しようとしてアメリカと衝突した。地政学をわきまえず、いつのまにかそうなった。当時から変わらぬ、文化や歴史に疎い日本の指導層の癖である。

いま、近隣諸国と歴史問題を抱え、国内には安直な歴史修正主義を叫ぶ声があがる。過去の歴史を踏まえ、未来を見すえる知性がひ弱だ。田辺元をどう読むか、ちょうどよい宿題だ。
学生を戦地へ送るには: 田辺元「悪魔の京大講義」を読む / 佐藤 優
学生を戦地へ送るには: 田辺元「悪魔の京大講義」を読む
  • 著者:佐藤 優
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(365ページ)
  • 発売日:2017-07-31
  • ISBN:4104752134
内容紹介:
日米開戦前夜、京大の哲学教授はいかにしてエリート学生を洗脳し、戦地へ送ったのか? 悪魔の講義の構造を解明する合宿講座全記録。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2017年9月17日

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