書評

『オープン・シティ』(新潮社)

  • 2018/06/26
オープン・シティ / テジュ・コール
オープン・シティ
  • 著者:テジュ・コール
  • 翻訳:小磯 洋光
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(284ページ)
  • 発売日:2017-07-31
  • ISBN-10:4105901389
  • ISBN-13:978-4105901387
内容紹介:
マンハッタンを日ごと彷徨する若き精神科医。時折よみがえる遠い国の記憶。数々の賞に輝いたナイジェリア系作家によるデビュー長篇。

奇妙にもいつのまにか自分が連なる世界

心に響く小説だった。が、ストーリーを説明するのは難しい。というのも、無数の物語を内包し、ほとんどどの頁(ページ)のどの行からもそれが目に見え、耳に聞こえ、間断なくこぼれてくるとはいえ、この小説自体のストーリーはといえば、精神科医のジュリアスが散歩し、思索し、回想し、観察し、ときどき人に会い、休暇をとって旅をし、また日常に戻って散歩をし、思索し、回想し、観察し……というだけ(といえばだけ)なのだから。

それがこんなに新鮮な小説になり得るということに、うれしく目を瞠(みは)った。

そこにはまず、徹底した言語化がある。街を、音楽を、絵画を、写真を、映画を、言葉に移すことができると誰が思うだろう。感情的にならない描写は職人的で、読む者に自由な視野を与えてくれる。

自由な視野――。この本を読む上で、それはぜひとも必要なものなのだ。

一つの景色にいくつもの物語がひそんでいるということを、写真家でもある著者はよく知っている。たとえば土砂降りの雨によって景色が変る場面があり、そこから立ちあがる過去が確かに感じとれるのだが、その静かな描写を読んでいると、どんな街にも歴史が上塗りされていくことや、人はみなそういう街に暮しているのだということ、歴史を知っていようといまいと、それに思いを馳(は)せようと馳せまいと、そのただなかにいるのだということが鮮烈にわかる。派手にチェーン展開していた貸しビデオ店の閉店、というようなささやかな変化もまた、その大きな流れに連なっている。

ジュリアスはやたらに歩きまわるので、ときに「必要のない不幸を目撃」したりもする。それはたとえばそれ程大きくはない交通事故だったりするのだが、おなじときにおなじ場所にいてさえ、その当事者と非当事者では見えている世界がすっかり違う、という、シンプルだけれど驚くべき事実がいきなりそこに出現する。世界は亀裂だらけなのだ。そういう亀裂を、著者は小説のあちこちに投げ込む。

だから、主人公と他者とのやりとりはつねにおもしろい。挨拶(あいさつ)程度にしか口をきいたことのない隣人、電車に乗り合せた人、道ですれちがう人、たまたま言葉を交わしたマラソンランナー、タクシー運転手、靴磨きのハイチ人、飛行機で隣合った老婦人、不法滞在者勾留施設にいたリベリア人、旅先で出会った人々、コンサートホールで見かけた老女――。基本的に悪意も利害もない、おなじ世界の構成要素である他者。敬愛する老教授や、同郷の友人の姉、別れたガールフレンドといった、彼にとって個人的な意味を持つ人々ではない人々、いわば風景の一部としての他者だ。ジュリアスは「いっときアパートメントから鳥の渡りを観察するのが習慣になっていた」のだが、それらの他者は彼にとって、「空のそこかしこに泡のように現れる、ほとんど色彩を欠いた点」である鳥と似たものだ。

ひっきりなしに思索しているジュリアスは、いろいろな人と議論もする。だからここにはたくさんの考察がある。ヘイトクライムについて、移民をめぐる現状について(「描写の犠牲者」について)、政治について宗教について歴史について、小説について(「オリエンタルでありたいという衝動に抗(あらが)う問題」について)、精神医学について薬草について死について、はてはトコジラミについてまで。考えさせられる問題ばかりだし、読んでいて刺激的でもあるのだが、考察はあくまでも考察であり、語り手であるジュリアスは淡々としてそれをこなす。そこ――というのはつまり、主人公の世界との距離のとりかた――こそがこの小説を非凡かつ優雅にしている。ある意味では、世界の諸問題もまた鳥の渡りのようにただここに存在するものであり、歴史の(あるいは現在という時空間の)構成要素の一つなのだ。

ジュリアス自身がどういう人物として描かれているか(年上の女性との唐突なアバンチュールの一幕とか、ややスノッブな趣味嗜好(しこう)とか、老教授の死に対する反応とか、同郷の友人の姉との関係とか)は実際の本で読んでいただくとして、小説には、ジュリアスの故郷ナイジェリアでの出来事がたびたび織り込まれる。家族の記憶、学校生活、親しかったわけではないのに心を惹(ひ)かれた祖母のこと。親しさの基準の曖昧さは、この小説にくり返し現れるモチーフの一つだ。人は人を、何をもって親しいとか親しくないとか言うのだろう。

こういう文章がでてくる。「後年、母と疎遠になったずっとあとで、母の人生をよく想像してみた。それは人間や経験や感覚や欲望が存在したが今や消滅してしまった世界であり、奇妙にもいつのまにか私が連なっている世界だ」

ここにあるのは、誰にとっても「奇妙にもいつのまにか」、自分が連なっている世界なのだ。(小磯洋光訳)
オープン・シティ / テジュ・コール
オープン・シティ
  • 著者:テジュ・コール
  • 翻訳:小磯 洋光
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(284ページ)
  • 発売日:2017-07-31
  • ISBN-10:4105901389
  • ISBN-13:978-4105901387
内容紹介:
マンハッタンを日ごと彷徨する若き精神科医。時折よみがえる遠い国の記憶。数々の賞に輝いたナイジェリア系作家によるデビュー長篇。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2018年2月18日

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