根源に迫ろうとする姿勢に迫力
本欄の担当者に、次にはこの書物を取り上げたいのですが、と相談ないし報告をして、同意を得たので、本格的に読み始めたが、さて、えらいものに取り組んでしまったな、というのが当面の感想であった。幾つか理由はあるが、その一つは、本書の射程から言えば当然なのだろうが、例えば「キズナアイ」、「ミライアカリ」、「輝夜月(かぐやルナ)」、「ねこます」などなど、およそ評者にとっては呪文以上の意味を持たない言葉が、頻出する。それに伴って「アヴァター」だの「リンデン・ドル」だの「ビザンチン将軍問題」などという、どうやら業界の人々にとっては周知のものらしい用語も、調べない限り、評子には全く意味不明な表現も、本書には溢(あふ)れている。文字通り情報格差を身を以(もっ)て体験する。もっとも、そこまで書いて、気づいたのは、同時に本書にやはり頻発される哲学用語、例えば<f〓r(フュア) uns(ウンス)>だの<f〓r(フュア) es(エス)>だの「超越論的(トランスツェンデンタール)」などに関しては、一般の読者は、今私が感じているのと同じ知的当惑を体験されるのだな、ということだった。実際、著者が親炙(しんしゃ)した、マルクス主義哲学の稀代(きたい)の泰斗廣松渉ばりの、堅い漢語の洪水、そして、上述のように、単語にカタカナのルビを振る表現と欧語原綴に溢れた本書は、テーマが最も現代的な、そして、社会に生きる一人ひとりの人間に密接に関わりのある性質のものであることを考えると、そうした取っ付き難(にく)い体裁が邪魔になりそうな感なしとしない。
しかし。
産業社会の後に来る脱工業化社会を、あるいは「物質・エネルギー」に次ぐ新しい基本概念を情報に求めた未来像を、「情報化社会」と名付けたのは、林雄二郎、公文俊平ら日本の学者の先駆的な仕事にあったが、そこでの主役は当時の新興の情報産業であるテレヴィジョンであった。それから半世紀、当時としては夢にも思わなかった「超情報化社会」が到来している。本書は、その現況の前に、人間はどう考えるべきか、その原点を探る極めて貴重な書物である。苦労しながら読み解いていく価値と、実りは十分にある。
実際、仮想現実(VR)は、もはや「仮想」ではなく、ある種の人々にとっては、まさしく現実そのものになりおおせたように見える。生身のスターよりも、初音ミク(まあ、これくらいは私でも知っている)に、人間として切実な、そしてリアルな親しみや愛情を感じ、自らの構築した仮想世界で、食生活から友人との交友生活までをほとんど一日中過ごすような人間もままあるとなると、この仮想と現実の逆転は深刻である。著者は、こうした場面の批判的な表現である「ポストトゥルース」という語を、むしろ積極的な意味を持たせて使おうと提案するが、そこまで辿(たど)り着くために、著者が準備した立論は、情報化社会論を歴史的に辿りながら、そこに含まれる諸問題を批判的に読み解く作業であり、さらに著者自身もかつて身を置いたメディアに関する所論を、やはり歴史的・批判的に検討する作業である。
その際、例えば語源に立ち戻って、「ヴァーチャル」の対概念は「リアル」ではなく、「アクチュアル」であるというように、常に根源に迫ろうとする姿勢は迫力がある。
それにしても索引だけで五〇ページに及ぶ博引、およそ世俗の世界から、高度に哲学的な世界まで、ほとんど想像を絶するような幅広いジャンルへの目の届き方には感嘆のほかはなく、一読者として頭の下がる思いで読了した。