ひたすら進む「脳化社会」の次は
八十歳を超えて、元気で出歩いていると、よく訊(き)かれることがある。「どういう健康法をしておられますか」。「なにもしていません」とにべもなく答える。酒も飲むし、タバコも吸う。毎日走ったりもしない。一日中、椅子に座ってゲームをしたり、メールを書いたりする。むろん腰が痛くなる。仕方がないから、ときどき立って歩く。たいていはそれで治まる。それでもダメなら、マッサージを頼む。幸い娘がやってくれる。本書の著者も腰痛持ちである。アメリカでは座って仕事をする人の五四%は腰痛持ちだという。著者は本書で「座りっぱなしは死を招く」という項目まで書いている。健康本が流行している。テレビのコマーシャルにはサプリメントがむやみに多い。本書も健康本の一つだと言えるかもしれない。健康に関する忠告が各パートの終わりにまとめてあるからである。
ただし、ふつうの健康本はノウハウ本である。本書は違う。紀元前八百万年、つまり人類がチンパンジーとの共通祖先から分かれて以来の地史的な時間をまず追う。それが本書の第一部である。当然ながらその間に人類は直立二足歩行という、他の哺乳動物にはない妙な行動を始める。その結果生じた身体の変化を丁寧に検証する。私は解剖学を学んだので、筋肉や骨の名前や働きには、普通の人より親しい。だから読みやすかったが、通常の読者はここで少し難渋するかもしれない。しかしそれほど難しいことは書いていない。身体の構造は理屈ではなくて、単なる事実だからである。事実を知るには、対象に慣れ親しむしかない。この部分で、最新の人類進化史をおおよそ学ぶことができる。
第二部は、農業の出現によって狩猟採集生活から定住生活に移った結果、なにが生じたかを論じる。紀元前三万年から西暦一七〇〇年頃まで、要するに産業革命までである。この頃の生活でも、長寿の人たちがいた。ここで強調されるのは運動である。べつにジムでトレーニングをしなさいというわけではない。日常の必然として身体を動かさざるを得ない。それが大切なのである。
第三部は一七〇〇年から一九一〇年まで、近代的な都市社会の出現による環境の変化と、身体に対するその影響である。たとえば椅子であり、近視であり、大気汚染である。私は小学校に入って、椅子に座って授業を受けた。ただしいまでも不思議に思うことがある。それは椅子の「正しい」座り方を習った覚えがないことである。椅子に座るくらい、当然だと考えられていたのであろう。小学生の私は椅子の上に足を上げて座り、女の先生にイヤというほど、膝をたたかれた記憶がある。家は畳の部屋ばかりで、椅子に座ることはほとんどなかった。姿勢を正しく、背をピンと伸ばせとは、徹底して教えられた。軍隊の影響に違いない。しかしこれは立っていても同じである。いまだに椅子にどう座るのか、よく理解していない。著者によれば、ビクトリア朝の英国では、椅子に座ることが集団的な学校教育を可能にしたのである。
第四部はそこから現代まで、である。著者の意見をまず聞こう。現代の標準的なオフィスでの仕事について著者は言う。「誰もが職場で送っているこの奇妙な生活、その歴史をさかのぼっていけば、一九世紀の工場と同じくらい有害な環境であることがわかるだろう。空気中に漂う綿ぼこりは減ったかもしれないが、いまのほうがずっと安全だなどとはけっしていえない。生体力学的な数々の問題と、うつやストレスなどの重大な死因を、いわば温室のように育んでいるのだ」
ヒトは自分が住む環境を徹底して変え、現在ではその中で生きている。国際地質科学連合は「人新世」という新しい地質年代の区分を創ろうとしている。ヒトの活動によって、地球環境が後戻り不可能な変化を起こしたことは明らかだからである。そこでは遺伝子系によって作られる身体は、変化に追従できなくなっている。その結果がさまざまな疾患、生活習慣病と呼ばれるものが生まれた。遺伝子系が追いつかないのは、じつは脳つまり意識が優先してしまったからである。遺伝子系が環境に適応して変化するには、万という桁の年月が必要である。しかし神経系はそれを短時間で達成する。むしろ「そのために」神経系が生じたと考えてもいい。デジタル社会とは、ほとんど脳そのものと言ってもいいのである。
著者のいうことは、じつによくわかる。読了してそう思う。なにが問題なのか、はっきりしている。現代人はサプリメントを摂り、ジム通い、ジョギングでなんとか健康を維持しようと、涙ぐましい努力を続けている。それでも私のいう「脳化社会」はひたすら進む。次の段階は明らかである。遺伝子系に任せておいたのでは、ラチがあかない。遺伝子系を変えてしまえばいいではないか。これも意識が行うことである。私自身の寿命はほとんど残っていない。その状況を見ないで済むとすれば、おそらく幸福なのであろうと思わざるを得ない。