書評
『選ばれた女〈1〉』(国書刊行会)
狂気の愛の凄まじさ、執拗な筆致
途方もない奇書である。たとえていえば、プルーストをこえる瑣末主義、セリーヌの塁を摩する錯乱、ジョイスに匹敵する内的独白が、滔々(とうとう)として恐るべきお喋りの激流に溶けこみ、音高く泡を立てているといった趣なのだ。主な筋立ては典型的な宿命の恋、現代版のトリスタンとイゾルデといってもいい。
舞台は第二次世界大戦を控えたジュネーヴ。主人公のソラルは国際連盟の事務次長を務める中年の美男で、生まれながらの誘惑者だ。この男が一目惚れの恋に落ちる。相手は自分の部下の妻で、貴族出身の美女アリアーヌ。ソラルは夫を出張命令で海外に放逐し、彼女をものにする。
その狂気の愛の凄まじさ!まずはそこが読みどころだ。
純乎(じゅんこ)たるロマンチシズムと悪魔的な嘲笑とを混ぜあわせて、愛と性の諸相が病的な執拗さで描きだされる。
おりからのナチスの台頭で、ユダヤ人のソラルは国連から追放される。作者のコーエンはユダヤ人難民のための国際パスポートの起草者であり、物語後半のソラルを呑みこむ受難には、作者自身の個人的な体験がにじみだす。
国籍さえも奪われたソラルは、アリアーヌだけを伴侶として放浪の旅に出るが、物語の後半では、宿命の愛の暗黒面がこれでもかこれでもかと畳みかけられる。引き金を引くのは嫉妬である。アリアーヌが短い関係をもった男のことをたねに、ソラルはねちねちと彼女を責める。
その情熱的な愛から絶望的な嫉妬への転換が恐ろしい。そこには明確な理由はなにもないからだ。男と女が社会的な絆を絶たれて一緒に生きることの必然としかいいようがない。その必然に導かれて二人は醜悪な心中に至る。理由を欠いた、絶対的な運命悲劇。どうして作者はこんな物語を書かなければならなかったのか。それが最大の謎だ。
とはいえ、上下二段組で千ページ近い大冊の大半を占めるのは、官僚政治、パーティー、家系、ファッション、美食、ユダヤ民族誌等々をめぐる饒舌きわまるトリビアである。結末までたどり着けるのは、選ばれた読者であろう。
朝日新聞 2006年11月26日
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