書評
『時のかさなり』(新潮社)
個人の歴史の結果としての家族
優れた小説においてなら、子供というのはつねにおもしろい素材だ。なぜなら子供は、たとえどんなに大人びた子供であっても大人ではないからで、大人は、たとえどれほど子供じみていようと子供ではないからだ。そこには個人の差以前に、生き物としての差がまずある。たとえ一緒に生活(もしくは活動)していても、大人と子供では見える景色が違うし、時間の流れ方も違う。だから大人と子供の両方登場する小説は、一つの場面に複数の景色を、複数の時の流れを、必然的に内包することになる。それが十全に書かれているだけでもぞくぞくすることなのだけれど、ナンシー・ヒューストンはさらに趣向を凝らし、四世代に渡って子供を語り手に据え、徐々に過去に溯(さかのぼ)るという方法で、おもしろくて辛辣(しんらつ)な、厳しいのにおおらかな、みずみずしい小説を書いてしまった。第一章の主な舞台はアメリカで、時は二〇〇四年。ソルという名の六歳の少年がいる。彼の目を通して語られる、彼の日々と彼の家族、そして世界(そこにはテロがあり、ブッシュがいて、シュワルツェネッガーもいる)。第二章の主な舞台はイスラエルで、時は一九八二年。ランダルという名の六歳の少年がいる。ずっと後に彼は息子を持つことになるし、それがソルなのだけれど、いまのところそれを知っているのは読者だけだし、ここで語られるのも彼の日々と彼の家族、そして世界だ(そこには美しい少女がいる)。第三章の舞台はカナダ、時は一九六二年。語り手はランダルの母にしてソルの祖母であるセイディだけれど、勿論(もちろん)ここではまだ六歳の少女だ。第四章(ドイツ、一九四四~四五年)の語り手は、セイディの母にしてランダルの祖母、ソルの曽祖母のクリスティーナで……という構成になっている。
この四人の主人公たちは全員、第一章の時点で健在なので、読者はランダルとは二度、セイディとは三度、クリスティーナとは四度、出会い直すことになる。そのときどきの年齢と状況の、その都度驚かせてくれる彼らに。大人になってから知り合った友人の、子供時代を見てしまうようなものだ。そのおもしろさが、二重三重四重に用意されている。
語り口がまたシャープなのだ。やや感じの悪い(私は個人的に結構好きなのですが)ソルを筆頭に、四人の子供の人格が見事に描き(語り)分けられていて、それがこの一冊をみずみずしいものにしている。穏やかなランダル、感受性の豊かで濃(こま)やかなセイディ、芯の強いクリスティーナ。みんなきちんと核を持った人間として描かれており、一人ずつがどんな大人に、さらには老人になったかを知っているだけになおさら、その健気(けなげ)な――そしてすでに百パーセントの在りようで存在している――姿が胸に迫る。
時間を溯るので、読みすすむにつれていろいろなことがふいにわかる。ああ、この人がああ言ったのにはこんな訳(わけ)があったのか、とか、あの動作はここから来ていたのか、とか、ああ、こういうふうに物語はつながっていたのか、とか、えええー、それは遺伝? とか。ミステリーの要素が多分にあるのだ。読み終えたとき、すぐにまた最初から読んでたしかめたくなる。
ここに描かれているのは家族の歴史というよりも、個人の歴史の結果としての家族で、そこがこわくてよかった。意識しようとしまいと、血を繋(つな)げるということは、苛酷(かこく)な人生に対抗するための、一つの方法なのだろう。
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