書評

『聖母像の到来』(青土社)

  • 2017/08/31
聖母像の到来 / 若桑 みどり
聖母像の到来
  • 著者:若桑 みどり
  • 出版社:青土社
  • 装丁:単行本(447ページ)
  • 発売日:2008-10-02
  • ISBN-10:4791764412
  • ISBN-13:978-4791764419
内容紹介:
16世紀、キリスト教宣教師とともに到来した聖母マリア像を、日本の民衆はいかに受容し創作し変容させたのか。「世界美術史」の立場から聖母像への認識の変更を迫る、美術史の第一人者が書き遺した、図像研究の輝かしい達成。

若桑みどり著『聖母像の到来』を読む

「あなた、私の味方? 敵?」。かつて若桑みどり氏は私にそう訊いたことがある。東京藝大で非常勤講師をしていた弱輩の私が共著のかたちで出した『芸術の記号論』(勁草書房、一九八三年)を氏が買ってくれたことを耳にしていた私は、「味方です!」と答えたと記憶するが、その自己中心の世界観とアグレッシヴな性格にいささかたじろぎながらも、毅然と戦う氏の姿勢にまぎれもない共感を覚えたものだった。もう三十年近く前のことだ。ちょうど氏が『マニエリスム芸術論』や『薔薇のイコノロジー』を公刊して、イタリア美術史家としてますます際立った存在感を示し始めた頃である。

芸術の記号論 / 加藤 茂,谷川 渥,持田 公子,中川 邦彦
芸術の記号論
  • 著者:加藤 茂,谷川 渥,持田 公子,中川 邦彦
  • 出版社:勁草書房
  • 装丁:単行本(291ページ)
  • 発売日:1983-06-06
  • ISBN-10:4326151269
  • ISBN-13:978-4326151264

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マニエリスム芸術論  / 若桑 みどり
マニエリスム芸術論
  • 著者:若桑 みどり
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(541ページ)
  • 発売日:1994-12-01
  • ISBN-10:4480081712
  • ISBN-13:978-4480081711

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薔薇のイコノロジー  / 若桑 みどり
薔薇のイコノロジー
  • 著者:若桑 みどり
  • 出版社:青土社
  • 装丁:-(382ページ)

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その後、氏は千葉大に職場を移して、何ものかに対する怒りをばねにするかのように、ジェンダー学としての美術史の地平を開拓・拡大することに邁進するが、私はその猛烈な仕事の量と質に舌を巻きながらも、遠くからやや冷めた眼差しを注いでいたように思う。ジェンダーだとかフェミニズムだとかいった言葉と概念で仕事を括るのは、氏自身のためにもいかにも惜しいと感じられたからである。

遺著となった本書『聖母像の到来』を一読して、しかし、私のそうした思いはまったくの杞憂にすぎなかったことを知らされた。本書は、氏を衝き動かし支えてきた熱い情念が、格好の主題を得て、間然することのないかたちで結晶化した稀有の研究書たりえているからだ。本書を、いうなれば、氏のイタリア美術史家としての側面とジェンダー学者としての側面とが、幸福な、ほとんど理想的な合体を遂げたものとして読むことができるだろう。

主題とは、対抗宗教改革のカトリック教会が行なった布教活動によって日本にもたらされた十六、十七世紀のキリスト教美術、なかでも聖母像が、どのように受容され、生産され、変容をこうむったかということである。対象となる時期を氏は三期に分け、フランシスコ・ザビエルの来日した一五四九年からイタリア人宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの来日した一五七九年までを「布教初期」としての「画像輸入時代」、一五七九年から徳川家康によってキリスト教禁教令の出された一六一四年までを「布教中期」としての「画像制作時代」、一六一四年から禁教令の廃止された一八七三年までを「禁教・迫害・潜伏時代」としての「変装・変容時代」と呼ぶ。

本書の比類のない点は、氏がそのイタリア語の能力を十二分に活用して、日本に残るキリスト教美術の源流を具体的に探り出していることだ。たとえば、こんな記述がある。

筆者は、この水戸版画、つまりは『フィデス』扉絵版画のテキストとなった版画を、ヴァッリチェッリアーナ図書館(ローマ)、聖フィリッポ・ネリ蔵書《福音書図集》中の「トマスの不信」に見いだした。すなわち、一九九五年ローマで聖フィリッポ・ネリ記念展が開催された際に、筆者はこの《福音書図集》と仮称されている四十三枚のシリーズからなるビュランの版画のなかの一枚が、水戸藩旧蔵の版画とまったく同一であることを発見した。

こんな「発見」は、並みの美術史家がそう簡単に口にできるものではない。実際、本書にはこうした「発見」に多少とも類似する記述が満ちているのであり、特に《聖母十五玄義図》の十五場面の図像の源泉を探る第六章などは、広範な文献の渉猟にもとづく実証的な美術史研究がどうあるべきかの範例といってもいいほどである。

だが著者の眼目は、つまるところ聖母像の「変容」としてのいわゆる「マリア観音」にある。この呼称は大正時代以後のもので、隠れキリシタンが用いていたものではないことに氏は注意を促す。隠れキリシタンは、ただ「サンタマリア」と呼んで、これを「観音」とは思っていなかったというのである。いわゆる「マリア観音」とは、マリアに見立てた観音でもなければ、マリアの観音への「化身」でもなく、あるいは神道や仏教の「習合」でもなく、要するに、日本および中国のキリスト教徒が創造した独自の「東アジア型聖母像」だというのが氏の結論である。

普遍的な東アジアの母性信仰のなかにキリスト教信仰が包含されたと見る氏は、そのジェンダー学の到達点であるかのように、こう書いている。「宗教の名は違い、その教義は異なっても、世界史を通底する民衆の願いは支配と刑罰を示す剣を持つ男性神ではなく、生命と愛による救済を約束する子どもを抱いた女神であった」と。

本書は、わが国における美術史研究のほとんど白眉といっても過言ではない、私にはそんなふうに思われる。著者によってはじめて可能になった文字どおり画期的な研究である。

【この書評が収録されている書籍】
書物のエロティックス / 谷川 渥
書物のエロティックス
  • 著者:谷川 渥
  • 出版社:右文書院
  • 装丁:ペーパーバック(318ページ)
  • 発売日:2014-04-00
  • ISBN-10:4842107588
  • ISBN-13:978-4842107585
内容紹介:
1 エロスとタナトス
2 実存・狂気・肉体
3 マニエリスム・バロック問題
4 澁澤龍彦・種村季弘の宇宙
5 ダダ・シュルレアリスム
6 終わりをめぐる断章

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聖母像の到来 / 若桑 みどり
聖母像の到来
  • 著者:若桑 みどり
  • 出版社:青土社
  • 装丁:単行本(447ページ)
  • 発売日:2008-10-02
  • ISBN-10:4791764412
  • ISBN-13:978-4791764419
内容紹介:
16世紀、キリスト教宣教師とともに到来した聖母マリア像を、日本の民衆はいかに受容し創作し変容させたのか。「世界美術史」の立場から聖母像への認識の変更を迫る、美術史の第一人者が書き遺した、図像研究の輝かしい達成。

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初出メディア

図書新聞

図書新聞 2009年2月7日

週刊書評紙・図書新聞の創刊は1949年(昭和24年)。一貫して知のトレンドを練り続け、アヴァンギャルド・シーンを完全パック。「硬派書評紙(ゴリゴリ・レビュー)である。」をモットーに、人文社会科学系をはじめ、アート、エンターテインメントやサブカルチャーの情報も満載にお届けしております。2017年6月1日から発行元が武久出版株式会社となりました。

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