率直かつ赤裸々な戦後皇族の内情
皇族の著作は世に少なくない。平安時代の宇多天皇などは猫の飼育記まで残している。天皇が記せば宸記(しんき)、親王なら御記(ぎょき)などといい、日本の皇統は長いから歴史家の私は千年分を読むのに四苦八苦している。だが寛仁親王のこの著作ほど率直かつ赤裸々に戦後皇族の内情や思いをつづった御記は珍しい。生前、親王は正直な物言いで知られ、宮内庁事務方の制止を押し切り、「アルコール依存症」を公表するくだりが本書にもでてくる。生来のご性格もあろう。しかし「正直第一」は夏目漱石門下の学習院長・安倍能成の教えの影響だったと、学友だった老舗和菓子店の虎屋・黒川家の人々が語っている。史料として読んでも、戦後の宮家の生活実態がよくわかる。例えば家族の呼び方だ。親王は長女彬子さまをアッコ、次女瑤子さまをヨーヨーもしくはヨー助とお呼びになっていた。幼い瑤子さまからは「おとーま(お父様)」である。私は王侯貴族の「呑(の)み」をやはり千年分観察しているが、有難い記述もあった。親王は京都の祇園のお茶屋・一力や老舗バー・元禄に行ったのか。これも虎屋さんを「保護者」とし十代で入店したという。また親王の伯母・高松宮妃の御舟入(おふないり)(納棺)の時も、透析のせいか「黒ずんで」いたお顔を自ら化粧パフで死化粧をした、とある。皇族は死穢(しえ)を避け遺体に触れない。そう歴史的に思い込んでいたが、実態は色々あると思い知らされた。
親王は戦後皇族中では機微にふれる発言も断然行われた方である。皇位継承をめぐる議論では、持論を開陳する親王に対して、朝日新聞が「お控えになっては」と制止の論を掲載した。本書を読めば、親王の思想を分析できる。皇籍離脱発言をなさったお若い時と、男系による皇位継承を論じた晩年では、親王の思想も変化していったが、一貫している部分もある。それは「議論の重視」である。実子でも「あまり議論ができない子どもには興味がおありにならない」(彬子さま)ほどで、自分の意見を持ち、議論するのが大事との思想は生涯変わっていない。
親王は、人間は「常識」から「コモンセンス」へ意識を転換しなければ、良くなっていかない。そういった基本思想を持っていたようである。常識は「町内会に於(お)ける冠婚葬祭のノウハウ…言葉遣い…年功序列・上下関係の中での身の処し方」にとどまる。要は閉鎖的な集団内の昔からのしきたりにすぎない。親王はこの常識を否定しないが、それだけではダメで、コモンセンスまで国民の意識を高めていかなければならないと考えていたようだ。
コモンセンスとは何か。「自国の歴史、政治、経済、社会情勢等々の情報をきちんと把握し、その上でそれらに関する自分の意見を常に持って行動し、発言する」ことである。これは一見難しいが、親王のほうでは解決策を示している。人に興味をもつ。「人間道楽」を行って、ときには酒を酌み交わし、人間と交流し、議論することで、コモンセンスへの到達に近づくと考えておられたのではなかろうか。「おとーまはねえ。お酒を少し飲みすぎるからお体をこわすのよ」とは、五歳の時に彬子さまが親王のお酒をたしなめられたお言葉だが、この議論好きで正直な皇族があまりにも早く世を去ってしまったことが残念でならない。