人間はゾウリムシと同じだ
タイトルの柔らかさにごまかされてはならない。大阪大学や名古屋大学の名誉教授であり、生物物理学の巨人である著者の、読みやすくて思わず唸(うな)る、そして笑う、けれどそこに書かれていることは唸ったり笑ったりでは済まされない、大真面目に人間の本質を考える、エッセイ風な、いや学術的な、そのどちらでもある読み物なのだ。この本で一貫して著者が言いたかったことは「人間はゾウリムシと同じだ」ということ。様々な実験を通して、それを証明してみせる。
たとえ単細胞のゾウリムシにも人間と同じ「自発性」があることを。ゾウリムシは何かにぶつかったとき自発的に、まるで意志を持ったように方向を転換するのだから。
「ゾウリムシの“自発”とわれわれヒトの“自発”とをくらべてみたい。われわれが自発的に何かをするというときには、自分の自由意志が入っているように思う。しかしわれわれが散歩していて急に道を曲がろうとするときを考えると、ゾウリムシの場合とどうちがうか」
英語で“自発的”は「スポンテイニアス」である。英英辞書で引けば二通りの意味が出ていて、意志を持って何かをやろうと思い立つことの他にもう一つ、何かが自動的におのずから起きるということ。これは日本語の自発という言葉も同じで、やはり二通りの意味がある。そしてこの二つの意味は、実のところ真反対に見える。けれど英語でも日本語でも、この真反対の両義を含んでいるのである。
膝を打った。私たち人間は自分の行動で「意志」の部分を大きく考えているけれど、実は後者の「おのずから起きること」に沿っている場合も多々あるのではないかと。あるいはこの両義は不可分に重なっているのではないかと。
自分の仕事に引き寄せて考えてみる。あらたに自由意志で発案し創作したように見える作品も、ゾウリムシと同じ生命体として「おのずから起きた」ことを、後天的に身についた表現スキルで、ただ表出しているだけではないのか。
これは一大事である。創作の独創性などと言っても実は、見えざる日本文学のDNA(何と便利な言葉)に支配されていて、それを自覚するかしないかだけだ、と常々思っていた私ではあるが、それがゾウリムシの自発性から来ているとなると、自分の存在をかけて本質的な疑問と闘わねばならない。
もちろん違う、紫式部や西行がゾウリムシ的であるはずがない。つまり人間は、いや私は、非ゾウリムシ的なもう一つの「自発性」、つまり知的意欲や創造的な意志でもって何かを作り出しているのだから。
いやそう言い切れるのか。ゾウリムシの自発性に人間のような両義性が無いと言えるのか。誰が実証したというのだ。
私は完全に大沢教授の術中にはまってしまったようだ。教授は科学者らしく実験でデータを取っていくのだが、その過程でゾウリムシからある物質を取り出すために、ゾウリムシをすり潰す。私は自分がすり潰されるような痛みを感じて悲鳴をあげてしまった。
読み終えた読者は、自分がゾウリムシと同じであることを、誇らしく嬉(うれ)しく感じるよりほか、安心立命の境地に至ることができないのである。そしてタイトルになっている「生きものらしさ」の言葉の奥深さに感動する。
自分の世界に耽溺(たんでき)するだけの私にとって、こうして自分をゾウリムシにしてくれる科学に感謝の念を抱くばかり。ゾウリムシの水槽の横に電磁波を発するケータイを置いて、ゾウリムシの行動変化を観察する学生の姿に、アホかと腹を抱えて笑ったけれど、笑っている場合ではなく、人間のためにもゾウリムシとケータイとの関係を、明らかにして欲しい。
さて、この一冊を読み終えて「人間はゾウリムシだ」という説に屈服したけれど、世の中は人間やゾウリムシの存在つまり「生きもの」全般を蹴散らす勢いで電脳が伸びてきている。将棋だってチェスだって電脳の勝利。
私はゾウリムシと人間の代表として、電脳に勝つにはどうすれば良いかを考える。そしてある発見に至った。絶対に電脳には無理なことが見つかったのである。
それは、同じ自分の行動に「飽きる」ことだ。飽きて別のことをやりたくなる。ゾウリムシは25度の水温を好むけれど、どこかで25度に飽きて、別の水温を求めるかも知れない。そういう一匹がいれば、そこに新たなゾウリムシ世界が発生するだろう。それこそ電脳が追いつけない「生きものらしさ」ではないのか。
私には「飽きる」才能がある。飽き続けて別世界を求め、それはほぼ失敗してしまうのだが、それでも「飽きる」ことを止められない。この点だけは電脳に追い越されることはないだろう。なぜなら電脳は死なないけれど、ゾウリムシも人間も必ず死ぬのだから、死を受容するための「生きることに飽きる」能力が、備わっていないはずがないではないか。