書評

『江戸時代の医師修業: 学問・学統・遊学』(吉川弘文館)

  • 2018/06/06
江戸時代の医師修業: 学問・学統・遊学 / 海原 亮
江戸時代の医師修業: 学問・学統・遊学
  • 著者:海原 亮
  • 出版社:吉川弘文館
  • 装丁:単行本(254ページ)
  • 発売日:2014-10-20
  • ISBN:4642057897
内容紹介:
医師免許がなかった江戸時代。必要な「学問」をどう習得したか。当時の医界を支えた「学統」など、就学プロセスを素材に実態を描く。

医療発展は集団・有志の自発的取り組み

江戸時代の医者や医療の事情については、わかっているようで、わかっていない。たしかに、日本の医学史はレベルが高い。しかし、穴がある。蘭学や漢方、近代医学史は緻密なのだが、美容整形史や生殖医療史は、おおまじめに取り組む研究者が少ない。また、日本の医学史は「医者史」になりがちで、医療を受ける患者や社会の側に立った研究が遅れている。その反省から、私も『武士の家計簿』を素材に、日本医史学会・日本歯科医史学会の合同総会で「19世紀の武士社会と医学・歯科医学をめぐって」という講演をしてみたことがある。本書は「江戸時代の医師修業」という題ではあるが、その内容は医者史に堕落していない。医者研究を通じて、その時代その社会の「医療環境」を明らかにする視点が一貫して保たれている点に、まず敬意を表したい。その意味で、本書は医者史でなく医療環境史であり、江戸時代における医療環境の成熟が、いつ、どのように、だれによって、成し遂げられていったのかを、一次資料や実例によりながら、具体的に明らかにしていく。

その際、著者が重視しているキーワードが「学統(がくとう)」と「遊学」である。これに対置される概念が「専門教育機関」であり「国家による公定」である。近現代社会では、医師の志望者は国家公定の管理下におかれる。医者になるには、国家の基準をみたした専門教育機関=医学校・医学部に入らねばならず、国家試験の有無はともかく、国家が医師免許を与えたものが、医師の資格身分を獲得する。ところが、江戸時代には、これが存在しない。八代将軍吉宗までは、日本の中央権力は医療を公定化することにまったく消極的であった。医師の資格を管理しようと動く藩も少なく、尾張藩が少しやってみたぐらいである。それでも、江戸期には、医師数が増え、医療意識は高まり、医療に関する経済活動も盛んになっていった。江戸中期以後は、藩が医療に関する専門教育機関の設置をすすめた。山崎佐(たすく)の研究によれば、藩校に医学科をおく(36藩)、藩校と別に医学校をもつ(26藩)、施設はなしで医学教育を行う(21藩)であるという。十万石以上の藩であれば、相当な医学教育制度を有していたといっていい。

ところが、江戸期における医者の修業・身分獲得は、これら専門教育機関ではなく、「学統」にあったと著者は指摘する。江戸時代は「誰でも医師になれた」のではない。社会的承認を近隣の医師や患者から得るには、まず近所の手習いで基礎教養を学び、近くの医師に弟子入りし、師の同意や推薦を得て、近隣都市の医学塾に進む必要があった。さらに江戸・京・大坂・長崎など大都市・医療先進地への修業の旅=遊学に出た。こうして既存医学の学統に連なり、その権威と学問技量を受け継いではじめて認められていた。本書はその様子を具体的に実証していく。

実際、この学統に比べれば、藩の専門教育機関は、充分に力を発揮できていなかったと著者は指摘する。医療では、地域の医療をけん引する優秀な医師が土地土地に育成されなければならないが、その機能を藩=公設の専門教育機関は充分に果たせていなかった。現代でも地域・診療科目による医師の偏りの問題に、どこまで公がコミットできているか疑問である。日本の近世医療は、公儀=幕府による医療政策の不在のなか、医師集団・有志の自発的な取り組みで発展していったというのが、著者の論である。今も日本の医療はこの「江戸の伝統」の下にあるのか。こうした実証研究を読み、日本の医療を長期的視座で考えることも大切であろう。
江戸時代の医師修業: 学問・学統・遊学 / 海原 亮
江戸時代の医師修業: 学問・学統・遊学
  • 著者:海原 亮
  • 出版社:吉川弘文館
  • 装丁:単行本(254ページ)
  • 発売日:2014-10-20
  • ISBN:4642057897
内容紹介:
医師免許がなかった江戸時代。必要な「学問」をどう習得したか。当時の医界を支えた「学統」など、就学プロセスを素材に実態を描く。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2014年11月16日

毎日新聞のニュース・情報サイト。事件や話題、経済や政治のニュース、スポーツや芸能、映画などのエンターテインメントの最新ニュースを掲載しています。

関連記事
磯田 道史の書評/解説/選評
ページトップへ